三村氏 単語

ミムラシ

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三村氏(みむらし)とは、備中戦国大名である。

概要

三村氏は常陸三村郷を本貫地とし、信濃から別れた一族が備中へと入部したのが始まりとされる。の末裔であり、信濃小笠原氏の庶流にあたる。

室町時代に入ると細川氏の一人として活動していた。備中内には氏や新見氏などの有力族が存在し、とてもではないが備中1の太守にはなれなかった。しかし時代は下り戦国時代になると、備中守護・細川勝久の統治に綻びが出てくるようになる。守護代・元資が反旗を翻したことが備中騒乱の始まりであった。この時は勝久によって鎮圧されたものの、勝久の死後は守護不在の状態となり、氏をはじめとして群雄割拠の時代へと突入した。

尼子氏備中に勢力を広げ始めると氏らと共に尼子氏下に入る。この時はまだ氏の力がまだ大きかった。尼子晴久吉田郡山攻めで大敗を喫するといち毛利氏の味方となる。(この時は大内下が適切か。)こうして三村氏と氏は争うようになり、次第に毛利氏の後援を受けた三村氏が氏相手に優勢に進めて三村家親長男・元庄為資の養子に入れてと名乗らせ、備中第一の勢力へと成長した。

氏を下におさめ、盟友・毛利氏の協力の元、備中をほぼ統一すると尼子氏力が弱まり、まだ群雄割拠状態の美作へと進出した。1564年には美作三浦氏を攻め滅ぼし、2ヶの太守になるかと思われた。

かしここである新勢力により三村氏の運命は暗転した。宇喜多直家の登場である。三村氏は当時美作と同時に備前にも侵攻していた。美作攻めの最中に直の謀略により、遠藤兄弟火縄銃により斃れてしまった。これ以降宇喜多氏と泥沼の抗争へと発展し、何度も大敗することが増えるようになった。

1574年に宇喜多氏が毛利氏と同盟を結んだことに憤し、織田氏と誼を通じて毛利氏と縁を切った。である宇喜多直家への恨みがあったとされる。これにより翌年には東から宇喜多軍、西から毛利軍の大軍に攻め込まれて当三村以下一族のだったものが自害し、備中を中心に一大勢力を築いていた三村氏は滅亡した。

=三村氏略系図=

  • ‖:養子 / 下線付き:養子に行った人物
小笠原長経
小笠原長忠 三村長時
<小笠原氏> 三村
三村
三村
三村
三村
三村
三村
三村
三村
三村
三村家親 三村 三村
+
三村 三村元範 三村元威 三村元高 上田 三村 三村

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