北条時頼(1227~1263)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
北条時氏と安達景盛の娘・松下禅尼の間に生まれた子で、北条泰時の孫、北条経時の弟。通称は五郎。
1230年に父・北条時氏が病死すると、祖父・北条泰時のもとで成長した。1237年に元服し、北条時頼と名乗る。1241年に三浦家村と薬師寺朝村の口喧嘩から三浦氏と小山氏が臨戦態勢に入ると、兄・北条経時が三浦氏に肩入れしたのに対し、時頼は静観し、泰時から褒められたというエピソードが『吾妻鏡』に記されている。1242年にその泰時が亡くなり、経時が執権となるが、1246年に経時は病のため執権位を時頼に譲り、そのまま亡くなっている。経時に子供はいたのだが、その後は時頼の家系が得宗流の嫡流となっていく。
そのわずか一か月後に宮騒動が起きる。時頼は将軍派であった三浦氏を抱き込み、名越流の離間にも成功し、名越光時、名越時幸の出家と将軍・九条頼経の更迭、後藤基綱、千葉秀胤、三善康持の罷免で、見事将軍派を壊滅させることに成功した。この結果都でも九条道家勢力を抑え、西園寺実氏の台頭や後嵯峨院の院評定制の施行など刷新が行われている。
さらに翌1247年には安達氏の暗躍で三浦氏が孤立し、三浦泰村と時頼はなんとか事態の鎮静化を図ったが、安達景盛の発した激と安達派の奇襲で宝治合戦が起き、三浦氏、千葉秀胤系千葉氏の両一族が滅亡して反時頼勢力が一掃される。
この翌月には叔父・北条重時を呼び寄せて連署につけ、幕政改革が行われていった。1249年には相模守に任じられる。さらに訴訟制度を改革し、引付衆が設置された。彼は祖父・北条泰時の時代を理想とし、御成敗式目にも多くの追加法が加えられた。
1256年には北条重時が連署を辞任し、代わってその弟・北条政村が就任する。時頼はこのころから伝染病に感染し、執権位を赤橋長時に任せ出家する。しかし息子・北条時宗を支えるために実権は握ったままであり、得宗専制の萌芽がみられる。そのまま1263年に亡くなった。
なお、時頼については水戸黄門よろしく、晩年は諸国を漫遊し御家人の暮らしぶりを秘かにみていった、という伝説が残る。このうち一つのエピソードがかの有名な「鉢木」であり、祖父の北条泰時同様武家政治の理想とされた、そんな人物であった。
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最終更新:2024/04/25(木) 22:00
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