執権とは、鎌倉時代に鎌倉幕府の将軍を補佐し政務を統括した存在である。
なお、もともとは朝廷の用語だったというのは政所などと変わらない。
概要
一応の起源としては北条時政が大江広元に続いて政所別当に任じられたもの、となっているが、職制としての執権が完全なものになったのは和田義盛の乱を経て、北条義時が侍所別当も兼ねるようになってからである。
早い話が政所のトップ+侍所のトップ、それが執権の役割である。
この結果、将軍が名目上の存在に次第に変わっていったことや訴訟における最高責任者になったこともあって、北条氏の権力伸長に一役買った。しかし、やがて得宗専制体制と北条氏の中でも嫡流のみが特別な存在となって分家の執権は得宗の補佐にとどまっていった段階、寄合衆が公的組織になった結果得宗流の執権ですらお飾りになった段階、といった手順を経て次第に権威の象徴以外の何物でもなくなった
歴代執権
- 北条時政
- ご存知北条政子などの父親。
- 厳密にいえば違うっぽいのだが、一応初代執権として彼を数えることが一般的である。
- 伊豆の在庁官人から源頼朝の岳父であったためあれよあれよという間に大出世を遂げ、源頼家勢力の排除後、源実朝を介して権力を伸長させる。
- しかし後継者候補であった北条政範の没後に起こさせた畠山重忠の乱を梃子に、妻の牧の方と謀って娘婿の平賀朝雅を将軍につけようとした牧氏の変で、北条義時、北条政子らの逆襲を受けて没落し、余生を過ごすこととなった。
- 北条義時
- 北条時政の息子…なのだが江間の苗字を名乗っていることや、北条政範の存在から嫡子でなかった可能性が高い。
- 北条時政没落後彼を引き継ぎ、和田義盛の乱、源実朝の暗殺や承久の乱を経て北条氏の地位を確定させた。
- 北条泰時
- 北条義時の息子…なのだが母親についての情報が残っていないことから、比企氏没落以前の北条朝時、北条重時、それ以降の北条政村に比べて嫡子でなかった可能性がある(またかよ)。
- 承久の乱では一軍の将として叔父の北条時房とともに活躍し、以後六波羅探題を任される。北条政村と後継者を争った伊賀氏の変では、北条政子らが味方に付いたため何とか義時の後継者として執権の座に就いた。
- 彼の治世は武家政治の理想とされるが、やや理想主義のきらいもある人物でもある。
- 北条経時
- 北条泰時の孫。父親である北条時氏が早くに亡くなったためこれを継いだ。
- 4年という短さでこれまた早くに亡くなったため、将軍:藤原頼経の更迭意外に強調すべき実績はないが、引付衆の設置の前段階にあたる組織の整備など、地味に幕政改革に一歩踏み出した最初の存在である。
- 北条時頼
- 北条経時の弟。兄経時が早くに亡くなったため、若くしてこれを継ぐことになる。
- 若い執権の存在は、反執権派としての将軍派を形成させることになるが、宮騒動、宝治合戦、建長政変でこれを乗り切った。
- 政治家としては引付衆の整備など祖父:北条泰時の政策を継承した一方、彼の代から次第に得宗による専制が始まっていった。
- 赤橋長時
- 北条重時の息子。極楽寺流北条氏の嫡流。
- 父:北条重時が連署として鎌倉に戻ったため彼の六波羅探題としての役職を引き継いだ。そして北条時頼の息子:北条時宗がまだ幼かったため、得宗流以外で初めて執権になった人物である。しかし北条時頼とほぼ同時期に亡くなり、執権としての在籍期間はわずか1年であった。
- 北条政村
- 伊賀氏の変で北条義時の後継者につけられそうになった、彼の息子。政村流北条氏の祖。
- 神輿として担がれた過去に反し、長年連署として得宗流を支え、反執権派の排除に取り組んでいった。
- 晩年にまだ若年の北条時宗を支えるためいったん執権につき、連署として経験を積ませた北条時宗と役職を交代して二度連署になった人物である。
- 北条時宗
- 北条時頼の息子。得宗流北条氏。
- 彼の先祖たちはここまで執権につくのにどったんばったん大騒ぎしてきたのだが、彼は生まれながらにして執権候補として育てられ、得宗専制体制が完全なものになった象徴ともいえる。
- 二月騒動で身内の不穏分子を排除した後、元寇に取り組むことになったためたぶん一番の有名人。
- 執権を退いた後も政務に関わり、執権ではなく得宗こそが幕政のかなめとなったことを示す最初の人物である。
- 北条貞時
- 北条時宗の息子。得宗流北条氏。
- 父時宗が早くに亡くなったため、わずか14歳で執権につく。霜月騒動、平禅門の乱を経て自分の親政を実現した後積極的な幕政改革に乗り出すが、嘉元の乱などを経て次第に政治意欲をなくしていった。
- 北条師時
- 北条時宗の甥。宗政流北条氏。
- 北条貞時の時代から同じく貞時のいとこの北条宗方とともに幕政を支える。
- 10年ほど執権を務めているが、急病で急死することとなった
- 大仏宗宣
- 北条時房のひ孫。大仏流北条氏。
- 六波羅探題時代は南方探題が初めて執権探題になるという画期を経験する。
- 嘉元の乱以降連署につき、やがて執権になるが、1年足らずで亡くなる。北条高時の中継ぎその1。
- 北条煕時
- 北条政村のひ孫。政村流北条氏。
- 祖父:北条時村が北条宗方に討たれる嘉元の乱を生き延びるが、この事件に関しても政務に関しても積極的な動きがみられない存在である。北条高時の中継ぎその2。
- 普恩寺基時
- 北条重時のひ孫。極楽寺流北条氏。
- 六波羅探題在任時には、両統迭立という問題を朝廷が抱え始めた時期であった。
- わずか1年で執権をおり、成長した北条高時にその座を譲ることとなった。北条高時の中継ぎその3.
- 北条高時
- 北条貞時の息子。得宗流北条氏。
- 太平記ではだめ君主でおなじみだが、そのエピソードはやる気をなくした北条貞時のイメージからとられたものも多い(田楽・闘犬愛好は事実だけど)。
- もはや完全にお飾りで幕政は長崎氏などの寄合衆の合議で行われていた。そして幕府滅亡を見届けることになる。
- 金沢貞顕
- 金沢実泰のひ孫。金沢流北条氏。
- 幕政内の対立で執権につくことになったが、北条高時の弟:北条泰家らの反感を恐れてわずか10日で執権を退くこととなる、嘉暦の騒動を起こした。
- 赤橋守時
- 赤橋長時のひ孫。極楽寺流北条氏嫡流。
- 嘉暦の騒動の結果執権の座につき、幕府最後の執権となった。ちなみに妹の赤橋登子は足利尊氏の正室である。
- 金沢貞将?
- 金沢貞顕の息子。金沢流北条氏。
- 太平記の記述から17代執権になった可能性があるらしい人。しかし通常は赤橋守時までを執権と数える。
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