北条泰時(1183~1242)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
北条義時と御所女房阿波局の間に生まれた。長男ではあるが、母の身分からもともとは庶長子だった可能性が高い。
すでに治承・寿永の乱が終わってから活動を始めた世代であり、1194年に源頼朝から頼の字を与えられ、北条頼時として元服する。しかし1201年ごろには北条泰時と名乗るようになっていた。武芸にも優れていたが、源頼家に諫言し、蟄居させられ、民の救済活動を行ったなど、本格的に政局に関わる前から美談に事欠かない人物である(無論鎌倉幕府の「公式」記録である『吾妻鏡』に載せられたエピソードであるため、差し引く必要はあるが)。
1211年には修理亮に任じられ、1213年には源実朝の学問所番の一番筆頭に任じられる。また和歌もたしなみ、歌会によく参加をしていたようだ。
1213年の和田義盛の乱では、北条朝時、足利義氏らと防衛を行うが、朝比奈義秀の突破を許してしまう。その後北条時房とともに若宮大路を守り、幕府軍の勝利を導いた。1219年には源実朝の推挙で駿河守に、実朝の暗殺後は武蔵守に転任した。
そして1221年の承久の乱である。泰時は父・北条義時の命で息子の北条時氏、叔父の北条時房とともに東海道大将軍を率いる。結果幕府軍を勝利に導き六波羅で戦後処理を行う。これが六波羅探題の成立となる。
1224年に父・北条義時が亡くなると、義時の後室・伊賀氏が自身との子・北条政村を執権にし、三浦義村と連携して一条実雅を将軍にしようとする伊賀氏の変が起きる。北条泰時は北条政子と協力して三浦義村を自陣営に引き込み、鎌倉に戻り自身を執権、北条時房を連署として無事義時の衣鉢を継ぐこととなった(伊賀光宗の記事にあるように、これも比企氏の変同様虚構である可能性もあるが)。1225年に大江広元、北条政子が他界したことを受け、泰時は評定衆を設置し、以後の幕府運営は合議制で行われていくこととなった。
しかし将軍である九条頼経も無事元服し、順風満帆に見えたかのようだったが、息子のうち北条時実は殺害され、六波羅探題を任せていた北条時氏は病死してしまう。この結果、泰時は時氏の息子である、北条経時、北条時頼兄弟に将来を託さざるを得なくなってしまった。
一方、このころ天候が不順であり、寛喜の大飢饉が起こる。これへの対策もあって制定されたのが、1232年の御成敗式目である。51ヶ条からなる初めての武家法は、以後の武家政権の基本法となっていった。そして1242年の四条天皇の早世と、以後の皇位継承問題を解決し、後嵯峨天皇の即位を見届けた矢先、病で亡くなることとなった。
掲示板
27 ななしのよっしん
2023/04/27(木) 13:29:02 ID: 2m3FfGL1F7
宗教を妄信して狂っておかしくなったが
そのあと現実を直視して世のために命を使い尽くす
…みたいな人だと聞いたが
ネット上だとそんなことは無い欠点のない名君だと書かれた物ばかり見る
実際のところどうだったの?
28 ななしのよっしん
2023/05/05(金) 11:56:13 ID: zxTFMXuHSn
泰時の作った仕組みは全然うまくいってなくて、泰時個人が死ぬほど働くことで(実際過労で死んだし死後には悪いことが起きたが、それまでは)うまくいかせてた感じ
それを「献身的に政治を行った聖君」ととらえるか「人を使って制度的になんとかできなかった無能」ととるかは見方によってくる
宗教どうのは聞いたことない
29
2024/03/23(土) 19:38:12 ID: hGcgTTVunj
承久後の急拡大しすぎた政治範囲や既存の京都周辺の政情、でかい飢饉もある中というのも考慮したいところだけどね
御成敗式目も何度も追加されたり地方によって齟齬が生まれるけど、そもそも御成敗式目の有効性が強すぎたせいってのもあるうえ、そこから世代をかけて整備していっているんだし
宗教狂いってのは多分明恵関係エピソードなんだろうけど明恵との関係性はほぼ明恵上人伝記って華厳宗側の記録にしかない
しかも泰時と明恵の話は殆どが権力者の泰時を喝破し、導くような中身であるうえ、それも二人の説話は増補されて今のところ南北朝期に取り入れられたと考えられている
だから著名な泰時の逸話を改変して明恵を持ち上げている可能性は十分にあることは考慮したほうがいい
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最終更新:2024/12/22(日) 01:00
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