三浦泰村(?~1247)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
三浦義村と土肥実平の娘の間に生まれた子。『承久記』によると1204年生まれと考えられるが、1184年生まれ説も根強い。1228年に北条泰時の娘と、1230年には泰時の妹と結婚し、北条氏の縁戚である三浦氏の立場を強めた。
1221年の承久の乱の際には、父親である三浦義村に従い幕府軍として東海道軍に加わり、宇治川の戦いでは北条泰時軍の一人として功績をあげている。官職も掃部権助、若狭守を歴任し、幕府でも1238年には評定衆に選ばれている。そして1239年に父親の跡を継ぎ、盤石な基盤を継いだはずであった。
しかし四代将軍藤原頼経に近侍して、後藤基綱、狩野為佐、三善康持、千葉秀胤、そして北条朝時とともに将軍派を形成し、北条泰時を中心とした足利義氏、安達景盛、安達義景ら執権派と対立したのだ。この対立の中で、北条泰時が亡くなり、北条経時に代替わりしたのち、1244年に頼経から藤原頼嗣への将軍位移譲、1245年の北条朝時の死によって三浦泰村が将軍派の旗頭になっていく。
そして1246年北条経時が亡くなり、北条時頼が家督を継ぐと宮騒動が起こる。三浦氏は何も行動に移さないまま、藤原頼経は京へ送り返され、北条朝時の息子・名越光時も追放、ほかの将軍派も軒並み処罰を受け、三浦氏を除くすべての将軍派が力を失ったのである。そしてついに運命の1247年が訪れる。
1247年、北条時頼によって三浦氏の謀反の疑いを追及され、執権派との合戦、つまり宝治合戦に至ったのである。三浦氏は鎌倉が北条氏に包囲される中援軍も期待できない戦いを強いられ、最後には弟の三浦光村らとともに三浦泰村は法華堂で一族・与党そろって自刃して果てたのであった。
三浦氏はその後、北条泰時の前妻であった矢部禅尼の嫁ぎ先・佐原氏が唯一執権派につき継承していくことになり、戦国時代まで続いていくこととなった。
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最終更新:2025/12/06(土) 02:00
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