堀口貞満(1297~1338)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
堀口氏は新田氏の庶流、大館家氏の庶子堀口貞氏に始まる家である。堀口貞満は堀口貞義の息子であり、新田一門の挙兵の際にこれに合流し、新田義貞本隊が稲村ケ崎を担当したのに対し、彼らは巨福呂坂方面を担当し、執権赤橋守時を破るなどの活躍を見せた。
やがて建武政権になると堀口貞義は越前守護と武者所二番頭人に任じられ、堀口貞満も従五位下まで官位を高める。
彼の太平記における最大の出番は、建武政権から離反し九州から再起して1336年に入京した、足利尊氏に対する後醍醐天皇の和睦の場面である。堀口貞満は新田義貞の功績を唱えて和睦に反対し、その言葉を受けて天皇は尊良親王、恒良親王を新田義貞に預けて越前に送り出したといわれている(あくまでも物語の中ではあるが)。
彼も新田義貞とともに金ヶ崎城に入場するが、落城の際脱出に成功。美濃の根尾徳山に潜伏し、北畠顕家軍の上洛の際はこれに協力した。
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最終更新:2025/12/06(土) 08:00
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