寺島宗則とは幕末の薩摩藩士、蘭学者、明治時代の外交官、政治家である。日本における電信の父と呼ばれる。
天保3年(1832年)5月23日、薩摩藩士・長野増右衛門の次男に生まれる。
幼少の頃叔父の松木宗保の養子になり、松木弘安と名乗る。長崎の蘭学者上野俊之丞(上野彦馬の父)の家に住み込み、蘭学を学んだ。
弘化2年(1845年)、江戸に遊学し、蘭学者の川本幸民に師事する。
安政3年(1856年)、幕府の蕃書調所教授手伝に任じられたが、藩主の島津斉彬の命により薩摩藩に帰還。斉彬が推進した近代化政策である集成館事業に従事。蘭学書の翻訳や電信実験、ガス灯の実験など当時の最新技術の開発に携わった。その後再び江戸に出て蕃書調所に勤めた。
文久元年(1861年)、遣欧使節団に通訳として同行。帰国後薩摩藩に戻る。
文久3年(1863年)、薩英戦争時に五代友厚と共に英国軍に捕えられる。
慶応元年(1865年)、薩摩藩が送り出した遣英使節団として渡航。
維新後は外交官として政府に出仕し、外務大輔、駐英公使、参議兼外務卿などを歴任。その傍ら電信事業の整備にも尽力し、明治4年(1871年)には上海やウラジオストクへの海底ケーブル敷設事業を主導する一方、外国資本との交渉では日本側に有利な形で協定を結ぶことに成功した。
明治11年(1878年)、条約改正交渉で米国との間で一部改正に成功したが、英独の反対で頓挫。外務卿を辞任した。その後文部卿、元老院議官、枢密院顧問官などを歴任した。
掲示板
1 ななしのよっしん
2014/10/30(木) 05:10:22 ID: 91qIRRTLnl
お由良騒動で有名なお由良に気に入られ江戸に遊学
でも斉彬に重用されて写真機の発明に携わったり功績も多い
勉強漬けの人生のため学者というイメージが強いが
盟友・五代友厚当ての年賀状に
「新年明けましておめでたくない。自宅が火事で焼けた」
という文章を書くなど隠れたジョークセンスを持つ(しかも放火されたっぽい)
政治家としては伊藤博文や山県有朋なら長州藩出身が目立つ元老の中で数少ない薩摩勢
2 ななしのよっしん
2014/11/05(水) 00:16:18 ID: 0gZulD0aXN
薩摩藩時代、あまりの蔵書量に友人の市来四郎から「いつ読んでる」と聞かれ
「寝ないで読んでる」と答えた勉強お化け
日本近代史上最高の技術官僚だが、薩摩藩閥の関係で不得手な政治をする破目に
憲法勉強のためイギリスに渡るが研究に没頭しすぎて伊藤博文に出し抜かれたりもする
薩摩藩出身でない方が意外と大成できたかもしれない人である
3 ななしのよっしん
2016/05/17(火) 07:25:53 ID: 70VTOJj/o6
江戸初期の猪熊事件で甑島に流罪になった公家・中御門(松木)宗信が
現地で作った子の末裔なんだよねこの人
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最終更新:2025/12/21(日) 10:00
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