猪熊事件 単語


ニコニコ動画で猪熊事件の動画を見に行く

イノクマジケン

1.2千文字の記事

猪熊事件とは江戸時代初期に発生した、かしこき所での乱交パーティ不祥事である。

概要

1609年に発生した左近衛少将教利が中心となって起こした、多数の公家や女官を巻き込んだ一大不祥事である。

教利は、伊勢物語モデルでありプレイボーイの代名詞であった平安時代歌人在原業平からとって"今業"と讃えられるほどの美男子、いわばイケメンであり、髪型ファッションスタイル様と呼ばれて童も競って真似するほどの時の人であった。1607年の時点でその好色ぶりを後陽成天皇に咎められて、から出奔していたのであるが、二年ほどでに戻ってきていた。

その頃、山院忠長という公家が、歯科医(牙医)であった兼康頼継を介して広局という天皇に近しい女官と密通しており、それを聞きつけたが便乗して、他の公家や女官を誘い込んで乱交に及んだのである。それは唐局や飛鳥井賢、烏丸広ら14人という大規模なものになった。当然、これが聞に達しないはずがなく、後陽成天皇は裏切られたという慚愧の念からか全員の処刑を唱えた。しかし、いちく察知したや兼康などは々とを脱出し、隠遁してしまった。

また、平安時代以来、朝廷の法として死罪というものはなく(保元の乱などでの処刑はあくまで武の判断である)、そんな厳罰を下せば事件の内実が人々の口の端に上って朝廷の権威が地に落ちるのに見えている。その為、対応に困った朝廷天皇にその旨を奏上し、また後陽成天皇江戸幕府に裁断を委ねることを容認した。江戸幕府の力はこの頃には下部組織である京都代を通じて朝廷にまで及んでおり、所代の板倉勝重はこの事件の捜にあたり、結果を当時駿大御所として辣腕をふるっていた徳川家康に報告した。

家康及び板倉の裁断により、首謀者のと、連絡役となっていた兼康は死罪に処せられるも、を考慮して他の諸官や女官は流罪に済まされた。(とはいえ、流罪は死は免ぜられるとはいっても、基本的には自給自足められる公家にとっては過酷な刑罰であり、厳しい罰には違いなかった)全員死罪が慮のうちであった後陽成天皇にとっては慢ならない寛刑ではあったが、幕府の圧力には今更逆らえず渋々了承するしかなかった。その為、後陽成天皇はこの後譲位の意向をすようになり、事件から2年後に政仁王へ譲ることとなった。

これは、幕府にとっては公家の綱紀粛正の名を借りた、統制強化への大きな口実となり、1613年の公家衆諸法度、そして1615年の禁中並公家諸法度制定へ動くことになった。元々天皇含めた当時の朝廷豊臣贔屓の潮が強く、徳への反発が大きかったが、この事件はもはや流れる時代に抗えなくなったかしこきところの衰微をより明示するものになった。

また、江戸初期における傾奇の潮の現れでもあり、世相の一つとして取り上げられることもある。

扱われた作品

大百科に記事があるもののみ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/06(土) 22:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/06(土) 22:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP