伊藤博文 単語

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イトウヒロブミ

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人物
伊藤博文
基本情報
生年 1841年10月16日
生誕地 日本周防束荷
1909年10月26日
清国江庁(現:中華人民共和国黒龍江省ハルビン南崗区)
出身地 日本周防束荷
日本
本名 伊藤 博文(いとう ひろぶみ)
別名 --
職業・肩書 政治家
備考・その他
人物テンプレートボックス

伊藤博文とは、

1.日本政治家(1841(保12年)1909(明治42年))
2.将棋プロ棋士関西所属。

本項では1について説明する。

概要

長州が治めていた周防束荷百姓十蔵の長男として生まれた。幼名利助。十蔵が仕えた足軽伊藤直右衛門の孫養子となったため、自身も足軽の身分に転じた。

安政4年(1857年)2月伊藤は萩士・来原良蔵と出会い、来原から学問を学んだ。萩に帰後、来原に紹介された松下塾に入門吉田松陰から教えを受けた事をきっかけにやがて幕末の討幕運動に参加。志士の一人となる。

明治政府発足後、その一員として参加。長州閥の代表的な政治家となる。海外から技術・制度を取り入れ、富強兵・殖産業に尽力。
大久保利通暗殺後、自由民権運動圧迫しつつも諸外に倣って立政治を薦めるべく、プロイセンドイツ帝国情が日本に合っていると考えて同憲法を参考とし、大日本帝国憲法を制定、日本東アジア初の立国家とした。
なお帝国憲法の制定前、明治18年(1885年)には内閣制度制定により、日本初の内閣総理大臣に就任している。なお44歳での総理大臣就任は2015年現在でも最年少記録である。

日清戦争の講和条約では日本側の全権大使となる。一方、日露戦争前にはロシアとの協調路線を論むが、日英同盟締結によって頓挫した。

日露戦争後、大韓帝国の保護化を進め、韓国統監となる。
際協調路線を重視する伊藤は、大陸進出政策をとる山縣有朋・寺内正毅らが唱えていた韓国の直接統治化(朝鮮併合)に消極的であったが、その保護化政策によって民族運動の反感を買い、満洲ハルビンテロリスト安重根弾に斃れ、生涯を閉じた。享年68。(なお、伊藤の死から29年後、安の息子・安俊生は、伊藤の子・伊藤文吉に謝罪して和解している。)

明治を通じて日本を列強の一因としたこと、日本近代化を推し進めた人物として、今なおその評価は高い。
昭和後期の千円紙幣(C千円銀行券)の肖像に採用されている。

伊藤博文と韓国

伊藤韓国観は1906年に新渡戸稲造が訪した折のエピソードが有名である。

伊藤朝鮮に内地人(=日本人)を移すといふ議論があるようだが、輩はこれに反対しておるのぢや」

戸部「然し、朝鮮人だけでこのを開くことが、果たしてできませうか」

伊藤「君朝鮮人は偉いよ、この歴史を見ても、その進歩したことは、日本より以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきのを自ら経営できない理由はない。才においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かつたのだ。さへ治れば、人民は量にても質にても不足はない」

伊藤朝鮮人の潜在的力を評価し、日本の手によって朝鮮教育し、国家を文明化することで朝鮮が自立することを理想としていた。それゆえ、伊藤韓国の地均しをすべく韓国初代統監に就任したのである。これだけ聞くと伊藤親韓的であるようにも見えるが、これは「文明であるが野蛮な民族を保護(=支配)し、文明化させてやることは相手民のためであり又の定めである」として世界中を植民地化していった西洋列強のを一にするするものである。

「遅れた韓国日本が保護し、文明化させてやる」という驕慢伊藤の言動にも現れていた。韓国外交権を日本が摂取する規約を盛り込んだ第二次日韓協約を締結するために慶宮を訪れた伊藤は、韓国の重臣ひとりひとりに賛否を尋問した。重臣たちは「断然不同意」と口々に反対意見を述べたが、伊藤は「反対と見做すを得ず」とこれを無視した。怒った卨参政が涕泣しながら退出すると、伊藤は「あまり駄々を捏ねるようなら殺してしまえ」と発言している(宮廷内には武装した日本軍が大量に入り込んでいた)。

伊藤は尊敬する人物に「天子明治天皇)とこの王様」を挙げるほどに韓国皇帝の高宗を尊重していたつもりであったが、自権を蚕食する日本を高宗が嫌悪しないはずがなかった。高宗は在野の抗日紛争を密かに支援し、第二次日韓協約も否認し続けた。1907年、高宗は社会日本侵略を訴えようとハーグ万平和会議に密使を送るが(ハーグ密使事件)、列強は等閑に付した。これを嗅ぎつけた伊藤は高宗に譲位を迫った。断固拒否する高宗を伊藤理やり退位させ、韓国最後の皇帝となる純宗が即位する。純宗はその10年前(1897年)の殺未遂事件により既にまともな知的力を失っていた。

朝鮮統監は天皇に直隷しているため行動に本議会の承認を必要とせず、さらには現地駐留軍への命権まで与えられていたため、今や伊藤韓国皇帝と同等の権力を手に入れることになった。譲位事件を機に伊藤は内政への容喙を開始する。自治権の奪取に加え伊藤韓国軍へ解散命を行ったことで旧軍人による抗日紛争が頻発。伊藤も叛乱は想定の範囲内で、事前に本に一個旅団の派遣を要請していた。1907年から1910年の4年間にかけて2,819回の戦闘が発生し、義兵の数は14万に上り、17,688人の朝鮮人死者が出た。朝鮮義勇軍はゲリラ戦を展開したが、ゲリラに対抗する常として日本軍による民間虐殺が発生し、伊藤をして「苛酷に失する軍事あり」と嘆かせている。

それでも伊藤は彼なりの心を以て韓国の「文明化」に努めた。伊藤が重視したのは実学(洋学)であった。西洋科学に通した技術者近代国家運営を担えるテクノクラートの育成は「文明化」のための最優先事項であった。その的のために伊藤朝鮮儒教社会対決しなければならなかった。個人的には籍を好しており、また朝鮮の伝統文化を尊重した伊藤であるが、政治の場に儒朝鮮の伝統的迷信が入り込むことは酷く嫌った。伊藤したのは科学近代法に基づいた法治国家である。しかし朝鮮日本以上に中国を受け、何年と儒教による人治政治を行ってきたである。その伝統を外国人によって破壊される屈辱に韓国人は耐えられなかった。

伊藤は「朝鮮の自治」のために「民心の一新」をし、朝鮮と列強の間で結ばれていた不等条約の解消交渉、中央銀行の設立、産業振など次々と近代化政策を打ち出したが、韓国人からは侵略者の植民地政策としか思われず、反日暴動エスカレートしていく一方であった。にもかかわらず、本からは「伊藤の施策は韓国本位すぎる」と批難されるという挟み状態に陥った。1909年、精尽き果てた伊藤は信念であった保護路線を放棄し、日韓併合路線を承認した。同年6月朝鮮統監を辞任。ハルビン安重根に暗殺される4ヶ前のことであった。

上記のように「伊藤博文は韓国併合反対だったにもかかわらず安重根に暗殺された」という言説は正確ではない。伊藤を説得するために相応の覚悟を持って直談判に訪れた桂太郎首相と小寿太郎外相は、伊藤があまりに簡単に併合に賛成してくれたものだから肩透かしを食らったという。翻意の直接の原因は定かでないが、満州をめぐる清との外交状況もそれを促したと推測される。また併合するか否かは直接統治にするか、列強のを慮って間接統治にするかの形式の違いでしかなく、伊藤韓国権を積極的に奪った人物であった。同胞を虐殺する日本軍の首と見做されたこともあり、伊藤に石を投げられるなど朝鮮人の憎悪を一身に引き受ける状態となっていた。

ちなみに韓国併合に反対していたのは伊藤のみでなく、1907年の第三次日韓協約締結時点では日本政治家の多くは併合反対であった。推進であった元老山縣有朋や、後に初代朝鮮総督となる寺内正毅も「社会の支持が得られない」として時期尚論者であった。しかしいざ併合してみるとイギリスロシアら西洋列強はいとも簡単にそれを受け入れた。彼らが気にしていたは併合後の関税がどうなるかだけであった。


この項、参考文献

逸話

  • 女性好きであった事はとみに有名。最初の妻とは浮気が原因で離縁したが、後添いとなった子夫人(先妻との離婚原因)は女遊びを咎める事はなく、本邸に同居する愛人達にも心配りを忘れなかったとという。夫婦仲も円満で、伊藤の死後は私財を整理して愛人達に手当を渡し、長年の労をねぎらった。
  • あだなは「」で、これは女性が掃いて捨てるほど傍にいた事からつけられた。高熱に浮かされている時も芸者二人をらせていたほどで、明治天皇から「程々にするように」と苦言を呈されている。
  • 一方で、地方で芸者遊びをする時は一流どころから少しランクが下の芸者を名していた。その土地における一流の芸者には地元の有力者が後ろにおり、揉め事になる事を避ける為だったという。
  • 質素な生活を送っており、私財もほとんど持たなかった。初代内閣総理大臣という事もあって多数の高級品を贈られたが、惜しげもなく他人に贈っている。
  • 本邸の滄浪閣では警護もつけず単身で散歩をし、ふらりと農家に立ち寄っては野菜の値段を尋ね、の畔に座ったまま暮らしぶりを聞くなど、飾らない人となりでしまれた。地元の祭りにも祝いを贈るなど気配りを行い、地元民には大将(てえしょう)」と呼ばれ慕われていたという。
  • 文久3年(1863年)、命により井上ら5名でイギリス渡航した際にまず渡航理由を尋ねられ、「海軍(Navy)研究する」と言おうとして「Navigation(航術)」と言い間違えた為、の上では夫同様の散々な扱いを受けた。難辛苦の果てにロンドンに到着後、聴講生としてロンドン大学に留学。しかし1年後に四カ艦隊による長州攻撃(下関戦争)の報を知り急遽帰、開戦阻止を志すが失敗。伊藤戦後の和議において通辞を務め、香港のような土地の租借だけは何とか阻止したという。後年長州ファイブ(Choshu Five)としてロンドン大学に顕碑が建てられ、2006年には映画長州ファイ』が製作された。
  • 明治21年(1888年)、下関にて周囲の反対を押し切ってふぐを賞味する。長らくふぐとして食べる事を禁止されていたが、その美味さを気に入った伊藤は当時の山口県知事にふぐ解禁を要請。以後ふぐが食べられるきっかけになったとされている。

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関連項目

- 初代  第2代  
                 -                  伊藤博文(所属)
18851888   
黒田清隆所属)
  18881889 
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