小野伸二 単語

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小野伸二(おの しんじ1979年9月27日 - )とは、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手である。
サッカー日本代表

概要

プロサッカー選手
小野伸二
基本情報
日本
出身地 静岡県沼津市
生年 1979年9月27日
身長
体重
175 cm
76 kg
選手情報
利き足
守備位置 MF
プロ入り 1997年
所属クラブ
代表歴
代表チーム 日本
出場歴 1998年-2008年
成績 56試合6得点
サッカー選手テンプレート

日本が生んだ二の天才プレイヤー。そのポテンシャルは歴代の日本人サッカー選手の中でも最高とも言われている。

高校生の頃から「10年に1人の逸材」と称されるほど注されており、各年代の日本代表として全ての世界大会に出場した経歴がある。また、2002年UEFAカップ優勝を経験しており、日本人で最初にUEFAタイトルを獲得。この年、アジア年間最優秀選手賞を受賞。

ポジションは攻撃的MFボランチやSHでもプレーしたことがある。1999年FIFAワールドユース選手権で準優勝を果たした「黄金世代」の中心的な人物である。

小野こそ、日本が生んだ一の天才」というも多く、辛口評論家で知られるセルジオ越後は、ここ40年で日本が生んだ天才は、ただ一人、小野伸二だけだとそのポテンシャルを絶賛している。また、後に世界的な名選手となるロビン・ファン・ペルシディルク・カイトフェイエノールト時代にチームメイトだった小野の才を絶賛している。

高卒1年Jリーグベストイレブンに選出、日本代表としてFIFAワールドカップ出場と規格外のプロデビューを果たしたものの、1999年7月に負った大怪でキャリアのほとんどが怪との戦いとなってしまい、ワールドクラスになれると言われた才を十分に発揮することができなかった。そのため、たびたび「悲運の天才」に挙げられることもあり、怪がなかったらどこまで凄い選手になったのかと惜しむが後を絶たない。

44歳まで現役を続け、2023年を最後に現役を引退

経歴

生い立ち

10人兄弟の6番で子として庭で育ち、小学生の頃はが貧しかったため少年サッカーチームの所属していなかったが、たまたま小野が1人でサッカーをしているところ撃した今沢サッカースポーツ少年団の監督が勧誘。母親を説得して入団させた経緯がある。

その類稀な才はすぐに開していき、小学生にしてすでに天才サッカー少年として地元では有名人となり、やがて全的にも注されるようになる。
1992年1月1991年度)に開催された「バーモントカップ第1回全日少年フットサル大会」(現在JFAバーモントカップ 全日U-12フットサル選手権大会)では沼津FCの一員として参加、決勝で読売サッカークラブジュニアユースに敗れたものの、準優勝、かつ本人も優秀選手に選ばれる。

中学は今沢中学校入学するが、当時サッカー部がかった同校は小野のためにわざわざサッカー部を創設している。13歳のときにU-16日本代表にも選ばれており、すでに多くの関係者が将来を嘱望する存在となっていた。

高校サッカーの名門校である清水商業高校に進学。1年生の頃からレギュラーを掴むと、高校生の段階ですでに別次元プレーを見せていた。1年生と2年生のときにインターハイ連覇、2年生と3年生のときには静岡県選抜の一員として国体少年の部優勝を経験。「超高校級」のMFとして注を集め、タレントいと言われた1979年生まれの高校生の中でも頭一つ抜けた存在となっていた。一方、全高校選手権には縁がく、3年間とも静岡県予選で敗退している。
ちなみに高校時代に小野が付けていた背番号8は、以降清水商業サッカー部のエースナンバーとして引き継がれている。

浦和レッズ

高校卒業後の進路は、サッカー雑誌などで取り上げられるほど注されており、当時のJリーグ13クラブ全てからオファーを受けている。その中から選んだのが浦和レッズで、1998年に入団し、プロとしてのキャリアスタートさせる。背番号は「28」。

1998年3月21日Jリーグ開幕戦のジェフ市原戦で、スタメンで起用されプロデビューを飾る。当時、高卒ルーキーデビュー戦としては異例の注度の高さとなるが、本人は至って冷静にプレーし、すでに大物ぶりを見せる。2戦となった3月25日の第2節横浜フリューゲルス戦では、くもプロ得点記録。その後も圧倒的なボールスキルの高さでチーム力として定着。2ndステージでは、3位と好成績を残したチームの中心と言える存在となる。このときチームメイトだった元スペイン代表のチキ・ベギリスタインも小野の才に驚かされたという。この年のJリーグでは27試合9得点という成績を残し、高卒1年にしてJリーグ新人王とJリーグベストイレブンに選出され、例を見ない程の々しいルーキーイヤーとなった。

2年となった1999年には、くも背番号高校時代と同じ「8」に変更。FIFAワールドユース選手権出場のため、シーズン序盤はチームを抜けるが、チームに復帰してからは攻撃の中心を担う。ところが、7月5日におこなわれたシドニー五輪アジア一次予選のフィリピン戦で悪質なタックルを受けて左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまう。長期離脱を強いられている間にチームは大きく低迷。11月17日市原戦で復帰したものの、チームJ2に降格してしまう。

降格が決定したことで他チームへ移籍する話もあったが、浦和に残留し、J1復帰をすことを決意する。2000年シーズンからは20歳にしてキャプテンを任されるが、前年度に負った大怪の後遺症からコンディション不良が慢性的に続き、シーズンの半分近くを欠場することになる。それでも、シーズン終盤戦には復帰して2トップの一として起用され、最終節において1年でのJ1復帰を果たす。
ちなみにこの年から現在トレードマークとなっているスキンヘッドに変貌している。

J1に復帰しての2001年は、コンディションが整いコンスタントに出場するが、1stステージを最後にチームを退団し、海外への挑戦を決断する。また、海外移籍直前のタイミングとなった7月19日に元読者モデルの一般女性結婚

フェイエノールト

2001年7月オランダエールディヴィジの名門フェイエノールトへの移籍が決定。背番号は「14」。チームに合流して間もなく小野ポテンシャルの高さを認めたベルトファン・マルヴァイ監督は、中盤でのプレーメーカーとしての役割を与え、ボランチのレギュラーとしてシーズン開幕から定着。オランダで「ベルベットパス」と名付けられた正確なパスで強力な攻撃を操る。チームUEFAカップ決勝まで勝ち進み、2002年5月8日に本拠地デ・カイプにおいてボルシア・ドルトムントとの決勝に出場。1点リードで迎えた後半5分相手からボールを奪い、芸術的スルーパスでヨン・ダール・トマソンの3点アシストし、優勝に貢献。小野にとって、これがプロキャリア一のビッグタイトル獲得となり、UEFA催の際大会でタイトルを獲得した最初の日本人選手となる。

2002-03シーズンは、2002年8月に開催されたUEFAチャンピオンズリーグの予備予選において、フェネルバフチェを相手にホームとアウェイの2試合連続で決勝ゴールを奪う活躍を見せ、チームを本大会出場へと導く。すっかりチームに欠かせない存在となると、前年度よりも前に飛び出す機会を増やすようになり、リーグ戦で7得点記録

2003-04シーズンは、後にオランダ代表の中心選手となるロビン・ファン・ペルシディルク・カイトの2人と一緒にプレーしたシーズンとなる。しかしこの頃から日本代表に参加するための強行日程を繰り返していたもあって足の負傷が慢性化するようになり、欠場を繰り返す。2004-05シーズンアテネ五輪に出場していたこともありオフが取れず、疲労が蓄積されてまたも怪の多いシーズンとなった。それでも、ルート・フリット監督からは信頼され、出場した試合では随所に好プレーを見せ、25試合の出場ながらもオランダでの最多タイとなる7ゴール記録

2005-06シーズンは、2005年日本代表での練習中に負った疲労骨折に加え、以前の負傷の再手術が必要となったことで回復が遅れ、前半戦のシーズンをほぼ棒に振ることとなる。また、エルウィンクーマン監督に対する自身への信頼が低かったこと、W杯イヤーであることを考慮して退団を決意する。

浦和レッズ(第2次)

2006年1月13日オファーを出していた古巣である浦和レッズへの復帰が決定。背番号日本代表と同じ「18」。しかし、フェイエノールト時代から続く怪からコンディションが悪く、かつて見せたようなきを放つことができずにいた。シーズン前半戦はトップ下の位置でレギュラーとして起用されてはいたが、守備を重視するギド・ブッフバルト監督山田暢久をトップ下にコンバートしたことでレギュラーから外れることが多くなる。チームJ1リーグ優勝を飾るが、素直に喜べないタイトル獲得となった。一方、天皇杯では、準々決勝のジュビロ磐田戦、準決勝の鹿島アントラーズ戦と連続でゴールを決め、チームの二冠獲得に貢献する。

2007年は三都アレサンドロが移籍したため、背番号をかつて背負っていた「8」に戻す。6月30日ジュビロ磐田戦で直接フリーキックループシュートによる2ゴールなど天才的な才を見せることもあったが、ブッフバルト以上に守備的な戦術を採用するホルガー・オジェック監督の采配によってスタメンから外れることが多くなり、チームアジア王者にいたACLチャンピオンズリーグ決勝の2試合はいずれも欠場となった。また、12月13日FIFAクラブワールドカップ準決勝のミラン戦でも出場機会は与えられず、チームでの居場所を失っていた。

ボーフム

2008年1月ドイツブンデスリーガのVfBボーフムへの移籍が決定。背番号は「23」。移籍決定からわずか4日後の2月4日ヴェルダー・ブレーメン戦で途中出場を果たし、ドイツでのデビューを飾ると、この試合で2アシストの活躍を見せてチーム勝利に貢献。2度海外挑戦は順調なスタートを切ったかに見えたが、怪もあってほとんどが途中からの出場となった。

2008-09シーズンもやはり怪に悩まされてしまい、加えてトップ下の選手にフィジカルと守備力をめるマルセルコラ監督の方針に合わずほぼ戦力として計算されなくなっていた。それでも、4月に入って怪人が出たことで2試合連続でスタメンとして起用されるが、第28節のボルシア・ドルトムント戦で右ひざ内側靭帯断裂の負傷を負ってしまい戦線を離脱。わずか公式戦10試合の出場で終わってしまう。

2009-10シーズンも開幕には怪も癒え、復帰するが、当初は控えという位置づけだった。しかし、2009年9月監督が交代すると、トップ下やボランチでのスタメンでの出場機会が増える。降格圏にいたチームを一時的に浮上させるなど好調を維持していたが、シーズン前半戦限りでの退団を決意する。

清水エスパルス

2010年1月高校時代から相思相愛の関係にあったと言われる地元の清水エスパルスへ移籍する。背番号はこのとき30歳だったこともあり、「30」を選択。4-3-3の右IHが戦場となり、ベテランとして若いチームをまとめあげて引っる立場となる。ボーフムでの最後のシーズンでの好調さをそのまま維持し、前半戦を首位で折り返すほど好調だった清水に貢献。タイトル獲得はならなかったが、天皇杯でも決勝まで進み、キャリア初となる公式戦で40試合以上の出場を果たした充実したシーズンとなった。

2011年からはチームキャプテンに就任。岡崎慎司藤本本田拓也といった力が大量に抜けた中で難しい取りを余儀なくされたが、この年加入したユース時代からの盟友高原直泰とのコンビチームを牽引。シーズン後半はに加入した元アーセナルのフレドリックユングベリと中盤を構成する。しかし、守備の負担が大きくなったことで好調だった前半戦よりもパフォーマンスが落ちてしまう。

2012年になると、若手を起用する方針を打ち出したことでベンチに座る機会が増えてくる。チームが9試合連続未勝利というトンネルに嵌ってきた中、新たな挑戦をめて7月で退団する。

ウェスト・シドニー・ワンダラーズ

2012年9月28日オーストラリア・Aリーグにおいてこの年に創設されたばかりのウェストシドニーワンダラーズFCに移籍。フェイエノールト時代の実績もあったことから、高い注を集めての新地での挑戦となった。持ち前の高いテクニックオーストラリアファンを魅了し、リーグ戦28試合8ゴールという成績を残し、レギュラーシーズン優勝に貢献。ファイナルシーズン準決勝のブリスベン・ロアー戦では、芸術的ループシュートを決めている。この活躍によって、Aリーグベストイレブンを受賞。さらに、在シドニー日本総領事館の在外館長を受賞している。

2013-14シーズンレギュラーシーズン2位で終え、ファイナルシーズン進出に貢献。また、2014年からは、浦和時代以来7年ぶりにAFCチャンピオンズリーグに出場。川崎フロンターレサンフレッチェ広島といったJリーグチームとの対戦に勝利し、ベスト8進出に貢献。チームからはシーズンMVPに選ばれ、パラマからは名誉市民賞を贈られる。

コンサドーレ札幌

2014年1月16日、この年の6月からの契約J2リーグコンサドーレ札幌に移籍することが発表される。背番号は「44」。小野北海道に訪れた際は、新千歳空港に400人のサポーター150人のマスコミが集まる大盛況ぶりとなった。もっとも移籍初年度は怪で7試合の出場にとどまり、期待に応えることはできなかった。

2015年シーズンも怪で出遅れることとなるが、この年チームに加入した同じ黄金世代の稲本潤一久々に一緒にプレーすることになる。監督交代があったシーズン後半戦はトップ下として起用されることが増え、10月5日J2第35節東京ヴェルディ戦で移籍後初ゴールを決める。しかし、チームはこの年上位に絡むことのないまま10位で終えることとなる。2016年も開幕直前に負った左臀部の離れので出場試合数は少なかったが、これまでの自身の経験を伝えることでを受け、力を付けた選手たちの成長もあり、チームJ2優勝と5年ぶりのJ1昇格という標を果たす。

2017年4月2日J1第5節ヴァンフォーレ甲府戦において、途中出場からJ11709日ぶりに復帰。この年も股関節の負傷によってプレーできない期間が長くなったが、2017年4月26日YBCルヴァンカップ第3節大宮アルディージャ戦でゴールを決めている。2018年は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任してレベルアップしたチームの中で両膝の負傷もあり満足プレーできない日々が続く。2019年も同じような状況が続き、公式戦の出場はルヴァンカップ2試合に出場したのみとなり、に退団を決意する。

札幌では、怪に苦しめられほとんどプレーできない苦難の日々が続いたが、野々村芳和社長は、「チームが強くなったのは伸二のおかげ。あのときの札幌によく来てくれたな。感謝しかない」と労いのコメントを残している。

琉球FC

2019年8月5日J2リーグFC琉球全移籍することが発表される。日本の北の端から南の端へとやって来たこととなる。背番号は「7」。デビュー戦となった8月17日横浜FC戦には、ホームスタジアムにクラブ史上最多記録を大幅に更新する1万2019人が集まった。

2020年J2リーグ第7節愛媛FC戦でシーズン初スタメンを飾るが、開始わずか2分で右膝内側側副靱帯損傷の重傷を負い、およそ2カ間離脱。またしても怪に悩まされることなった。12月25日クラブとの協議の結果退団を発表。

コンサドーレ札幌(第2次)

2021年1月1日北海道コンサドーレ札幌への全移籍が発表され、1年半ぶりに復帰することが決定する。J1開幕戦となった横浜FC戦で後半41分から出場し、888日ぶりにJ1ピッチに立つ。2021年6月9日天皇杯2回戦ソニー仙台戦で直接FKによるゴールを決め、41歳255日での大会最年長得点記録更新する。リーグ戦の出場は4試合、出場時間11分にとどまったが、若手の多いチームの手本として評価され、契約延長となる。

2022年1月28日札幌と生涯契約を結んだ事が発表される。代表取締役GM三上大勝は「導者なのかフロントに入るのかは、本人に決めてもらう」と、小野希望を優先させる意向を示した。

自身の44歳の誕生日である2023年9月27日インスタグラムにおいて2023シーズンをもっての現役引退の意向を表明する。12月3日J1リーグ最終節 古巣である浦和戦でスタメンとして出場。前半22分でピッチを後にし、波乱万丈だった選手生活の幕を閉じる。

日本代表

すでに小学生の頃から天才と称されていた逸材だったため、13歳の頃にU-16日本代表に選出されている。本格的に代表での活動を始めたのが1994年U-16日本代表高原直泰稲本潤一と共にチームの中心選手であり、後の黄金世代の原とも言えるチームであった。10月からカタールで開催されたU-16アジアユース選手権に出場し、日本の初優勝に貢献。翌年、エクアドルで開催された1995 FIFA U-17世界選手権にも出場するが、得失点差がわずか1だけ届かず、グループリーグで敗退している。

1998年プロデビューしてわずか1週間というタイミング日本代表に選出される。4月1日ソウルでおこなわれた韓国との善試合に途中出場し、18歳フル代表デビューを飾る。さらに、6月フランスで開催された1998 FIFAワールドカップメンバーに選ばれる。グループリーグ第3戦のジャマイカ戦の後半34分から出場し、ファーストタッチで相手DFを股抜きでかわすなどインパクトを残す。ちなみに、このときの18歳272日でのW杯出場は日本代表の史上最年少記録であり、いまだに破られていない。
1998年の後半は、U-19代表での活動が中心となり、10月タイで開催されたAFCユース選手権1998に出場。キャプテンであり、チームの絶対的エースとして攻撃の全権をり、期待されたとおりの別格の存在感を見せる。決勝で韓国に敗れ優勝は逃したが、ワールドユース出場権は確保。2ゴール8アシストという記録を残し、大会最優秀選手に選ばれる。

1999年4月からナイジェリアで開催された1999 FIFAワールドユース選手権U-20日本代表として出場。稲本が怪によって控えに回ったため全試合ゲームキャプテンを務めることになる。グループリーグ突破のかかった第3戦のイングランド戦では、麗なループシュートチームの2点を決め、決勝トーナメント進出をもたらす。準々決勝のメキシコ戦でもヘディンシュートを前半24分に決め、ベスト4進出に貢献。準決勝でもチームを牽引し、決勝進出という快挙を成し遂げる。小野テクニック世界舞台でも際立っており、現地ナイジェリアファン創造性溢れるプレーに酔いしれるほどだった。だが、決勝は累積警告によって出場停止となってしまう。決勝ではシャビ・エルナンデスイケル・カシージャスを擁したスペインの前に小野を欠いたチームは為す術なく敗。それでも黄金世代の若者たちは世界舞台で準優勝という偉業を成し遂げ、歴史を開く。個人としても高いゲームメイク力が評価され、大会のベストイレブンに選出される。

ワールドユースの後、シドニー五輪出場をU-21日本代表に選出されるが、1999年7月5日シドニー五輪アジア一次予選のフィリピン戦において、相手からの悪質なばさみタックルを後方から受けてしまい、左膝靭帯断裂の重傷を負わされてしまう。これによって長期の離脱を余儀なくされただけでなく、後のサッカー人生を大きく狂わせてしまう後遺症を残してしまう。怪2000年になっても続き、ピッチに戻ったもののコンディションの回復に時間がかかり、シドニーオリンピック本大会のメンバーから落選してしまう。フル代表のメンバーとして、10月レバノンで開催されたAFCアジアカップ2000に出場。初戦のサウジアラビア戦に途中出場し、代表初ゴールとなるチーム4点を決める。

2001年5月日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001に出場。初戦のカナダ戦で先制ゴールを決めると、左サイドレギュラーとして起用されるようになり、チームの準優勝に貢献。所属するフェイエノールトで好調だったこともフィリップ・トルシエ監督から評価され、代表での定位置を掴むことに成功する。

2002年6月日本韓国の共同開催となった2002 FIFAワールドカップメンバーに選ばれる。大会直前に垂炎を発症し入院するが、本番には事間に合わせる。グループリーグ初戦となったベルギー戦では、1点先制された場面でミドルレンジからの縦パスを通し、鈴木隆行の同点ゴールアシスト。これまでのキャリアべると、大会を通して黒子していたが、22歳にして迎えた2度W杯は全4試合にスタメンとして出場し、日本の史上初となるベスト16進出に貢献した。

日韓W杯後に就任したジーコ監督からは、中田英寿中村俊輔稲本潤一と共に黄金カルテットの1人とされ、初陣となった10月16日ジャマイカ戦でゴールを決めている。2004年6月1日オールド・トラフォードでおこなわれたイングランドとの善試合では、後半8分に同点ゴールを決め、敵地での引き分けに貢献。

2004年8月に開催されたアテネオリンピックオーバーエイとして出場。初戦のパラグアイ戦では、2度巡ってきたPKのキッカーを務め、いずれも決めて2ゴールをあげる。大会では、トップ下としてチームを牽引し、3試合全てにフル出場したものの、連携面での未成熟さを露呈し、グループリーグで敗退となる。さらに、代表への参加による過密日程のもあって怪が頻繁に起こり、代表戦を欠場することが多くなる。さらに、2005年6月ドイツW杯最終予選バーレーン戦の直前の練習で右足を疲労骨折してしまい、長期離脱を強いられる。その間にレギュラー小笠原満男に奪われることになる。

2006年に入り浦和に復帰したこともあって代表の試合に参加しやすくなるが、本調子ではなかったためファーストチョイスという序列ではなかった。6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップメンバーに選ばれ、初戦のオーストラリア戦で後半34分から出場。しかし、自分が入った直後にチームは立て続けの3失点で逆転負け。それ以降出場機会は与えられず、3度W杯は失意の残るものとなった。

ドイツW杯以降は代表から遠ざかっていたが、2008年8月20日ウルグアイ戦で2年2カぶりに代表に復帰。フル出場を果たすが、試合後岡田武史監督は一部の選手に見切りをつけた旨を語り、これを最後に代表に呼ばれず、最後の代表戦となった。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1998 浦和レッズ Jリーグ 27 9
1999 浦和レッズ J1リーグ 14 2
2000 浦和レッズ J2リーグ 24 7
2001 浦和レッズ J1リーグ 14 2
2001-02 フェイエノールト エールディヴィジ 30 3
2002-03 フェイエノールト エールディヴィジ 29 7
2003-04 フェイエノールト エールディヴィジ 24 2
2004-05 フェイエノールト エールディヴィジ 25 7
2005-06 フェイエノールト エールディヴィジ 4 0
2006 浦和レッズ J1リーグ 28 5
2007 浦和レッズ J1リーグ 25 3
2007-08 ボーフム ブンデスリーガ 12 0
2008-09 ボーフム ブンデスリーガ 8 0
2009-10 ボーフム ブンデスリーガ 9 0
2010 清水エスパルス J1リーグ 30 2
2011 清水エスパルス J1リーグ 26 6
2012 清水エスパルス J1リーグ 14 0
2012-13 WSW Aリーグ 24 7
2013-14 WSW Aリーグ 23 2
2014 コンサドーレ札幌 J2リーグ 7 0
2015 コンサドーレ札幌 J2リーグ 17 2
2016 北海道コンサドーレ札幌 J2リーグ 15 0
2017 北海道コンサドーレ札幌 J1リーグ 16 0
2018 北海道コンサドーレ札幌 J1リーグ 7 0
2019 北海道コンサドーレ札幌 J1リーグ 0 0
FC琉球 J2リーグ 7 0
2020 FC琉球 J2リーグ 14 0
2021 北海道コンサドーレ札幌 J1リーグ 4 0
2022 北海道コンサドーレ札幌 J1リーグ 1 0
2023 北海道コンサドーレ札幌 J1リーグ 1 0

おもな個人タイトル

引退後

引退してすぐの2024年1月AFCアジアカップ2023のAbemaでの放送のゲスト解説者として起用される。2024年4月からは9年ぶりに復活するフジテレビの「MONDAY FOOTBALL みんなのJ」のメイン解説者としてレギュラー出演。

プレースタイル

卓越したボールスキルの高さを駆使して中盤から攻撃を組み立てるゲームメーカー。両足ともに精度の高いパスを出すことが可であり、ダイレクトパスでテンポ良くボールを動かすことを得意としている。受け手の欲しいタイミングで出てくる柔らかく優しいパスを出すため、日本では「エンジェルパス」、オランダでは「ベルベットパス」と呼ばれている。

ボールコントロールの正確さから、「ボールと会話できる選手」と呼ばれている。FWではないもののシュート技術にも秀でており、小学校時代以来GKとの一対一の場面やPKでシュートを外したことがないと言われている。

メインポジショントップ下であるが、トルシエJAPANでは左サイドフェイエノールトではボランチでプレーしており、汎用性の高いファンタジスタとして知られている。

元々運動量の少ない選手ではないが、慢性的な足の負傷のもあって年々動きの量が落ちていることは否めず、何よりコンディションの安定に苦労することが多い。本人も「怪をして以降は見えていたイメージ色が消えてしまった」と語っている。

人物・エピソード

関係者からの評価

日本天才がいるとしたら、小野伸二1人だと思う。」

ラモス瑠偉

Jリーグの中でこいつはセンスがスバ抜けていると思えるのは、小野伸二だけです。」

中村俊輔

シンジは今まで一緒に働いた中で一番いいプレイヤーだった。」

ベルトファン・マルヴァイ

「オノは天才オランダ代表の練習でオノよりうまい選手はいなかった。」

ロビン・ファン・ペルシ

「セードルフを見たときより、小野に会ったときのほうが衝撃を受けた。」

ディルク・カイト

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