ヨハン・クライフ 単語


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ヨハンクライフ

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ヨハン・クライフ(Johan Cruijff, 1947年4月25日 - 2016年3月24日)とは、オランダの元サッカー選手、元サッカー導者、サッカー界の辛口ご意見番。元サッカーオランダ代表

ポジションはFW、MF178cm65kg。利き足は右足。

概要

オランダ・アムステルダム出身。リヌスミケルス監督が考案した「トータルフットボール」の体現者としてサッカー史にその名を残す名選手である。フランツ・ベッケンバウアーと共に1970年代を代表する選手であり、バロンドールを3度獲得。名言が多いことでも知られる。相手のタックルを柔軟なボールタッチフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」という異名を持つ。

「クライフ以前」と「クライフ以降」では、フットボール世界は全く違うと言われるほどサッカー界に対して与えたが大きい人物であり、現代フットボールの基礎を築いた人物と評されている。

アヤックスユース出身で1964年トップチームデビュー。2度のエールディヴィジ3連覇、1971年から1973年UEFAチャンピオンズカップ3連覇を果たす。1973年FCバルセロナに移籍。カタルーニャが気に入ったようで息子にジョルディというカタラン名前をつけている。
その後アメリカオランダプレー1984年引退

1986年から1988年までアヤックス監督を務め、1988年から1996年までFCバルセロナを率い、とくに1991年から4連覇を達成している。バルセロナ以降は監督業からは離れている。

オランダ代表としては1966年デビューFIFAワールドカップには1974年西ドイツ大会のみの出場となったが、この大会でこれまで立った成績を残していなかったオランダを決勝まで導いており、優勝は逃したものの与えたインパクトは大きく、後のサッカー界の潮流に変革をもたらしたと言われている。

選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり、ジョゼップ・グアルディオラなど彼の思想のを受けた導者も多い。現代に至るまでバルサ哲学に多大なを与えた人物であり、その育成組織である「ラ・マシア」の概念に深く関与し<ている。

2016年3月24日がんとの闘病生活の末に、スペインバルセロナ家族に見守られながら、息を引き取った。68歳だった。

なお、日本では2014年から2016年まで「ビッグコミックスピリッツ」においてクライフの哲学を題材としたサッカー漫画のクライフイズム』という漫画が連載されていた。

選手としての経歴

生い立ち

1947年4月25日、アムステルダム東部のベトンドルプという労働階級の多いで次男として生まれる。実家果店を営んでいたが、生活は困窮しており恵まれ環境ではなかったが、2歳年上のや近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーじてテクニックを磨いていた。

100mほどの場所にアヤックス・アムステルダムホームスタジアムや施設があり、遊び場として頻繁に施設の中を出入りしていた。試合があるときにはボールボーイを務め、トップチームの選手たちのスパイクを磨き、自ら率先して使い走りをしたりしているうちにアヤックスの選手やスタッフたちから可がられ、マスコット的な存在となっていた。なお、後に恩師となるリヌスミケルスとは彼がまだ現役だったこの頃に出会っている。

サッカーの技術は日に日に向上しており、少年時代華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっていた。

10歳の誕生日である1957年4月25日の後を追う形でアヤックスの下部組織に入団。当時入団するには合格率1といわれた入団テストを合格しなければならなかったが、クライフの実力を知っていたユースチーム監督推薦という形でテストなしでの入団となった。当時の憧れの選手だったアルフレッド・ディ・ステファノやファース・ウィルクルスをお手本に練習に励んでいた。

12歳となった1959年7月8日父親心臓発作によって45歳若さで急死。家族全員突然の出来事にショックを受け、クライフも立ち直るまでにかなりの時間を要したといい、の墓前に語り掛けるようになり、架の対話を通じてとともにあり見守られているのだと確信していたという。果店を手放し、アヤックスの施設で清掃員として働いたり、政婦を勤めて計を支えていた。その後、母親アヤックスの用具係である男性と再婚。この男性は幼少の頃から交流のある人物で、彼の存在が一家計と共に落ち込んでいたクライフを救う存在となっていた。

当時のアヤックスには野球部門があり、クライフも1番キャッチャーとしてサッカーオフシーズンのときには所属していた。野球でも15歳以下のユース代表に呼ばれるほどの実力があり、将来メジャーリーグプレーすることも考えるほどだった。15歳までは野球を続けていたが、オランダ内においてサッカープロ化の機運が高まったことを受けてクラブ野球部門を止したため、サッカーに専念することになった。

15歳のときにユースチームに昇格。当時のクライフの体格は同年代のチームメイトべても華奢で細く、トップチーム監督だったヴィク・バッキンガムからはジムに通うように促されたり、必要な栄養を摂取するようアドバイスを受けていた。とはいえ体格のハンディを全にすることはできなかったが、ストリートで培った非テクニックによってチームエースとなり、センターフォワードとして1シーズン74ゴールという驚異の得点力を記録。1963-64シーズンにはユースの全大会で優勝している。

アヤックス

16歳となった1964年アヤックス・アムステルダムプロ契約を交わす。クラブから寄せられた期待は大きく、プロ契約は当時アマチュアセミプロ流だったオランダサッカー界において2人の事例であった。同年11月15日、アウェイGVAV現在FCフローニンゲン)戦で公式デビューを飾ると、この試合で初ゴールを決める鮮デビューとなる。さらに11月22日PSVアイントホーフェン戦でもゴールを決め、勝利に貢献。これによってサポーターからはチームアイドルとして人気を得るようになる。しかし、この頃のアヤックスは2部降格の危機に直面する創設以来最悪といえる低迷期に陥っていた。そのためバッキンガム監督は退任となり、後任となったのがリヌスミケルスだった。ミケルスはクライフの才を「ダイヤの原石」と高く評価しながら、まだ17歳で精神的にも体的にも未熟なことを考慮してじっくりと育てる意向を持ち、スーパーサブとして起用していた。

2部降格という最悪の結果を回避したミケルス監督は、1965-66シーズンより自身が志向する「トータルフットボール」の導入に本格的に着手する。全員攻撃・全員守備をコンセプトに素ボール回しで試合を支配し、頻繁なポジションチェンジを繰り返してチャンスを生み出すスタイルは選手に相当な運動量がめられるため、ミケルス監督は選手に厳しいサーキットトレーニングを課したのだった。クライフはこのトレーニングに熱心に取り組み、監督めるものを実現する存在となっていく。1965年10月24日エールディヴィジAFC DWS戦で途中出場からシーズンゴールとなる2ゴールの活躍を見せる。これによってレギュラーの座を手にすると、の8試合では7得点記録1966年3月テルスター戦ではプロキャリア初のハットトリックを達成。4日後のフェーダムとのKNVBカップでは4得点を挙げる。この年、アヤックスリーグ優勝を成し遂げ、リーグ戦19試合16ゴール公式戦24試合25ゴールという成績を残し、大きくブレイクした。

1966-67シーズンにはすっかりチームの顔といえる存在となっていた。ミケルスのトレーニングによって体的にも完成されるようになり、「トータルフットボール」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。特にもう一人のエースである左ウイングピートカイザーと強力なコンビネーションを築き、いつしか二人は「ロイヤル・ペア」と呼ばれるようになっていた。当時革新的な戦術だったトータルフットボールは他チームを寄せ付けず、シーズン122得点という圧巻の攻撃力を発揮したアヤックスリーグ連覇に加えKNVBカップも制し、内二冠を達成。クライフは30試合33ゴールという数字を残し、20歳にしてエールディヴィジ得点王を獲得。初出場となったUEFAチャンピオンズカップでは、2回戦でリヴァプールFCと対戦。濃霧の中での第1戦では奔放な動きで相手の守備を混乱に陥れ、アウェイの第2戦では2ゴール記録し、合計7-3での勝利に貢献。結局準々決勝で敗れたが、リヴァプール戦での戦いぶりからミケルス監督とクライフの際的な評価は急速に高まるのだった。

1967-68シーズンでもクライフ擁するアヤックスフェイエノールトとの優勝争いを制してリーグ三連覇を達成。リーグ戦33試合25得点記録し、1968年オランダ最優秀選手に選出される。1968-69シーズンではリーグタイトルこそ逃したものの、チャンピオンズカップではオランダ勢初の決勝進出を果たす。しかし、決勝ではジャンニリベラを擁するACミランの前に1-4で敗。結局シーズン冠に終わる。
1969-70シーズンは自身にとって二度となる内二冠を果たしている。

クライフとトータルフットボールがさらなる高みに到達したのは1970-71シーズンだった。シーズンの初めに鼠径部の負傷を負ったことで数かの離脱となったが、1970年10月30日PSV戦で復帰。この頃から背番号14を背負うようになる。チームにはヨハン・ニースケンスが加入したことでより試合の支配力を増していた。1970年11月29日AZアルクマール戦では1試合6得点ダブルハットトリックを達成。リーグタイトルは逃したものの、チャンピオンズカップでは準々決勝でセルティック、準決勝でアトレティコ・マドリードを破り、2度の決勝進出を果たす。決勝のパナシナコス戦ではニースケンスの欠場によって中盤でプレーし、悲願だったクラブ初の欧州制覇を達成。そして、1971年では2位以下に大差をつけてオランダ人としては初となるバロンドールを獲得。名実ともに欧州トップの選手となった。

1971-72シーズンビッグイヤーを置き土産ミケルス監督が退任し、シュテファン・コヴァチが監督に就任。コヴァチ新監督はトータルフットボールを引き継ぎながら、規を重視したミケルス前監督と違って選手の自性を容認していた。この方針によって選手のポジションの流動性はより活発となり、組織としての連動性がより進化するのだった。エールディヴィジでは32試合25ゴール記録し、自身にとって2度となる得点王を獲得。この年のチャンピオンズカップでも決勝まで進出し、当時アヤックス同様に黄金期を築いていたインテルと対戦。トータルフットボールと対極のスタイルである「カテナチオ」戦術のインテルとの戦いは大きな注を集めることとなったが、インテルの堅守を攻略して2ゴール記録する活躍によりチームの連覇に貢献。内二冠も果たしていたことからシーズン三冠トレブル)の偉業も成し遂げるのだった。

1972-73シーズン、開幕直後のFCアムステルダム戦でキャリアでは一となるオウンゴールを献上する。それでも1週間後のゴーアヘッドイーグルス戦では1試合4ゴール記録欧州王者として挑んだインターコンチネンタルカップでは、南米王者のインペンディエンテを相手に勝利し、クラブ世界一タイトルを獲得。チャンピオンズカップ準々決勝ではバイエルン・ミュンヘンと対戦し、初めてフランツ・ベッケンバウアーと顔を合わせることとなる。クライフとベッケンバウアーの初対決ヨーロッパ全土が注する一戦となったが、トータルスコア5-2で勝利。準決勝ではレアル・マドリードを破り、決勝のユヴェントス戦でも自由度の高い流動したスタイルで相手を翻弄し、チャンピオンズカップ三連覇を達成。この年、自身にとっては2度となるバロンドールを獲得

アヤックスで全てを手にした一方、クライフ自身は家族からの進言、さらには長年コンビを組んでいたカイザーとの関係が悪化していたことから移籍に気持ちが傾いていた。チャンピオンズカップ三連覇後、移籍に向けて交渉を進めるようになったことでクラブ会長と対立。さらに練習へのボイコットまでほのめかす強行手段まで見せるようになったことからチームメイトサポーターとの関係まで悪化していた。

バルセロナ

1973年600万ギルダーという当時世界最高記録となる移籍金で恩師であるミケルスが監督を務めるスペインFCバルセロナに移籍することが決定する。提示された年俸はアヤックス時代の3倍という破格のものだったと言われている。この移籍決定に対しアヤックスサポーターからは猛な反発が起き、クライフの自宅に害虫が送り付けられるなどの嫌がらせも受けている。

手続きの遅れによってリーグでのデビュー10月28日のグラナダCF戦にまでずれ込んだが、この試合で2ゴールを決める活躍でサポーターからの大きな期待に応えている。慣れしんだミケルス監督チームということもあって加入してすぐにチームの中心として躍動。12月22日アトレティコ・マドリード戦では、中に飛び上がり、右かかとでボールに合わせるアクロティックなゴラッソを決めている。このゴール1999年クラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた伝説ゴールとなっている。1974年2月17日、敵地サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリードとのエル・クラシコでも躍動し、5-0での大勝に貢献。テレビ試合を観戦していた何千人ものバルサファンから飛び出し、頭で祝勝会に参加するほどの盛り上がりとなった。クライフの加入でミケルスのスタイル確立されたバルサは残り5節を残した段階で14シーズンぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝を達成。当時、フランコ独裁政治の時代にあったカタルーニャの人々にとってこのリーガ優勝は特別なものであり、チームに多くのものをもたらしたクライフは「救世主El Salvador)」と称えられた。この1974年FIFAワールドカップでの大活躍と合わせて3度バロンドールを獲得している。

1974-75シーズンは自らがフロントに獲得を推薦したニースケンスがチームに加入。バルサでのトータルフットボールのさらなる完成に期待が集まったが、リーガではギュンター・ネッツァーとパウルブライトナーを擁したレアル・マドリード優勝を譲る結果となる。チャンピオンズカップでも準決勝でリーズ・ユナイテッドに敗れ、新地での欧州制覇は果たせなかった。シーズン冠となったことでミケルス監督は退任となる。

1975-76シーズンには新監督としてボルシアMG黄金期を築いたヘネスバイスバイラーが就任。しかし、クライフとバイスバイラーサッカー観の違いもあって折り合いが悪く、確執が続いていた。ついにはバイスバイラーへの不満から退団をほのめかす発言をおこなうほどになってしまい、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任をめる抗議活動を行う事態に発展。結局、シーズン途中でバイスバイラー監督は辞任し、クライフは残留しチームと再契約を結ぶ。もっとも、チーム内の内紛によって2シーズン連続で優勝を逃すこととなった。

1976-77シーズン、クライフがフロントに要したことでミケルスが監督に復帰。チームが自らの思うような編成となったことでモチベーションを取り戻し、30試合14ゴール記録。しかし、この年もリーガではタイトルを取れず、UEFAカップでも準々決勝で同じスペインアスレティック・ビルバオ相手に敗退と1年ほどの成果を挙げられずにいた。

1977-78シーズンになると相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる力を100%発揮することがなくなった。また、自身の強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注を集めるようになっていた。コパ・デルレイ優勝タイトルは獲得したものの、加入1年ほどのきを見せられなくなったクライフは1978年5月に現役引退を表明。5月27日の古巣アヤックスとの試合を最後にオランダへと帰する。
一方でクライフは当時のホセルイス・ヌニェス会長アヤックスの育成組織をモデルとした育成組織寮を作ることを提言しており、1年後の1979年バルセロナ育成組織の選手寮ラ・マシア完成している。

最初の引退時期

現役引退後、1978年8月30日アメリカニューヨークコスモスに招待され、世界選抜との試合に出場したものの、獲得オファーを断っていた。11月7日にはアムステルダム引退試合を開催。クライフはアヤックスの選手として出場し、バイエルン・ミュンヘンと対戦することになる。ところが、カール=ハインツ・ルンメニゲやゲルト・ミュラースター選手をえたバイエルンの前にアヤックスは0-8と大敗。一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいたという後味の悪い中で引退セレモニーをおこなう羽になってしまう。

その後、スペインで実業へと転身し、自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開。「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインセメント野菜輸出業務に従事していた。ところが、詐欺師に騙されたことにより資産の大半を失ってしまう。事業に失敗し多額の借金を背負ったクライフは家族と共にアメリカへと移住。そして、彼の気持ちは現役復帰へと傾くのだった。

ロサンゼルス・アゼテックス

1979年5月アメリカ北米サッカーリーグNASL)のロサンゼルス・アゼテックスと年俸70万ドルという当時としては高額の契約を結ぶ。当初は2年前までペレが在籍し、ベッケンバウアーが在籍しているニューヨークコスモスへ入団すると見られていたが、恩師であるミケルスが監督を務めていること、将来的に成長する可性のあるチームであったことが決め手となり、アズテックスへの入団となった。5月19日のロチェスター・ランチャーズ戦でデビューすると、2ゴール1アシストの大活躍で期待に応える。チームミケルス監督のみならず、オランダ代表やアヤックスチームメイトだった選手が数名在籍していたことが追いとなった。クライフは27試合14得点の活躍によってチームプレーオフベスト4まで導き、このシーズンNASL最優秀選手に選ばれる。

ワシントン・ディプロマッツ

1980年2月NASLのワシントン・ディプロマッツへ移籍する。クラブはマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出し、スター選手の獲得により観客動員数を増加させたいという狙いがあった。チームにはオランダ代表のチームメイトだったピム・ヤンセンが在籍していたが、チームスタイルイングランドのようなパワーフットボールであり、トータルフットボールとは正反対のスタイルだった。そのためクライフは次第にチーム内で孤立していき、監督や選手から反感を買うようになっていた。また、人工芝のによる怪に苦しめられ、持ち味を十分出せないままとなった。

レバンテ

1981年2月スペイン2部(セグンダ・ディビジオン)のレバンテUDへ移籍。当初、NASLのオフシーズンを利用して古巣のアヤックスへの復帰を画策していたものの、リーグの規定によって認められず、テクニカル・アドバイザーとして1試合だけ揮を執ったのみとなった。レバンテではバルサ時代と同じくらいの報酬を受けるという2部のチームとは思えない破格の待遇を受けるが、高額の契約が経営状態を圧迫チーム内に不協和音を生み出し、加入後チームの成績は下降。自身も10試合2得点という冴えない成績に終わる。シーズン終了後には会長中米逃げし、事前約束したボーナスを受け取れなかったことでクラブ喧嘩別れとなる。

ワシントン・ディプロマッツ復帰

バンテ退団後、イタリアACミランとの契約交渉を進め、試合に出場したが、鼠蹊部の負傷もあってプレーの精を欠いたことで契約はお流れとなった。1981年6月アメリカへと戻りワシントン・ディプロマッツへ短期契約で復帰。レギュラーシーズン終了後に退団。

アヤックス復帰

1981年12月オランダへと戻り、古巣であるアヤックス・アムステルダムに選手として8年ぶりに復帰。すでに34歳となり、怪が増えていたことから選手としては限界説が囁かれていたが、2度デビュー戦となった12月6日のHFCハーレム戦でGKの意表をつくループシュートを決め、周囲の評価を払拭してみせる。当時のアヤックスには次世代のオランダ代表を担うことになるマルコ・ファン・バステンフランクライカルトジェラルド・ファネンブルグが在籍していたが、チームは8位と低迷していた。しかし、きを取り戻したクライフが加入してからは17勝2分とハイペースで勝ち点を積み上げ、1981-82シーズンエールディヴィジ優勝

1982-83シーズン久々チャンピオンズカップに出場。1982年12月5日ヘルモント・スポルト戦ではPKの場面でイェスパー・オルセンとワンツーを交わしてGKを引き付け、最後は人のゴールシュートを決めるという奇想天外トリックプレーを決めてみせる。この場面は伝説となり、後世のスター選手がオマージュとして再現をしている。36歳となったクライフは故障を繰り返し、継の死去という悲しい出来事もあって心身ともに満身創痍の状態だったが、それでもチームを牽引し続け、内二冠を達成。
ところが、当時のアヤックス会長から年齢を考慮して引退を勧告されたことでクラブとの関係が悪化。激怒したクライフはシーズン終了後に退団し、禁断の移籍へと踏み切るのだった。

フェイエノールト

1983年、最後の新地として選んだのはアヤックスの宿敵であるフェイエノールトだった。当然、アヤックスサポーターからは大きな反感を買うこととなったが、彼はプレーで自らの価値を明して見せる。これまでのようなエゴは抑え、若い選手にアドバイスを送り、体力面の衰えをよりゲームメイクしたスタイルに変化させることでカバーしていた。特に当時21歳だったルート・フリットピーターハウトマンとのコンビによって多くのチャンスを作り出し、ベテランとして極上のきを放つ。1983-84シーズンリーグ戦を欠場したのは1試合のみで11ゴール記録チームに10シーズンぶりのエールディヴィジ優勝KNVBカップ優勝内二冠をもたらす。キャリア晩年にも関わらず5度となるオランダ最優秀選手を受賞した最高のシーズンの終了後に現役引退を表明。最後の公式戦となった1984年5月13日PSCズヴォレ戦でゴールを決め、有終の美を飾る。
最後はサウジアラビアでの試合に出場。前半はなぜかサウジアラビア代表の選手として、後半はフェイエノールトの選手としてプレー。こうしてかしいキャリアに幕を閉じ、試合後にはサウジアラビア王子から記念品として24金製の食器が贈呈された。

オランダ代表

1966年9月、19歳のときに初めてオランダ代表に招集され、9月7日UEFA欧州選手権1968予選のハンガリー戦で代表デビューを飾ると、この試合速代表初ゴール記録する。しかし、代表2試合となったチェコスロバキア戦では相手から執拗に足を蹴られながらファウルを貰えなかったことで審に抗議をおこない退場処分となる。このクライフの行為を重く見たオランダサッカー協会は1年間の公式試合出場停止処分を科す。

処分が解けた1967年9月13日欧州選手権予選東ドイツ戦で1年ぶりに代表に復帰すると、決勝ゴールとなる代表2得点記録。しかし、その後オランダデンマーク戦を落とし、グループ3位で予選敗退となる。当時のオランダクラブレベルではアヤックスフェイエノールト際大会で結果を残していたものの、オランダ代表は1970 FIFAワールドカップUEFA欧州選手権1972でいずれも予選敗退と成績が振るわなかった。クライフ自身もアヤックスで見せるようなきを放つことができずにいた。

1970年あたりから代表でもトレードマークでもある背番号14をつけるようになる。1974 FIFAワールドカップ欧州予選では6ゴールを決める活躍を見せ、オランダ1938年以来36年ぶりとなるFIFAワールドカップ出場に貢献する。しかし、このときのオランダは報酬面の問題もあってまとまりを欠き、久々舞台への挑戦に大きな不安を抱えたままだった。

1974年6月西ドイツで開催された1974 FIFAワールドカップに出場。オランダは大会直前にFCバルセロナ監督を務めていたリヌスミケルスを監督に招へい。準備時間が短かったミケルス監督はかつて揮していたアヤックス時代のメンバーを中心に「トータルフットボール」をおこなうためのチームを編成。クライフをキャプテン名し、ミケルスの哲学を体現するピッチ上の監督としての役割をめるのだった。大会がスタートするとオランダ全員攻撃・全員守備の革命的なスタイルサッカーを見せ、まぐるしいポジションチェンジと正確のパスワークで他を圧倒。
クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡み、味方に細かなポジショニングの示を与えるなどめられた役割を見事に遂していた。スウェーデン戦で披露した披露した軸足の後ろを通す美しいターンは「クライフターン」と呼ばれ、後に何度も放送され、世界中で有名になる。1次リーグを首位で突破したオランダは2次リーグ初戦でアルゼンチンと対戦。クライフはこの試合ワールドカップゴールを含む2ゴールの活躍を見せる。続く東ドイツ戦にも勝利し、第3戦は優勝補のブラジルと決勝進出を賭けた戦いとなった。ここでもオランダセンセーショナルなプレーを連発し、前回王者ブラジルに何もさせなかった。後半5分にヨハン・ニースケンスの先制ゴールアシストすると、20分には左からのクロスゴール前で反応すると、麗なジャンピングボレーによるゴールを決める。このゴールにより、「フライング・ダッチマン(飛ぶオランダ人)」の異名がつくようになった。ブラジル相手に文字通りの勝で決勝に進出。トータルフットボールの脅威が世界中に知れ渡った試合となった。
決勝では、フランツ・ベッケンバウアーを中心としたリベロシステムを導入した地元西ドイツと対戦。試合開始々にドリブル突破からウリ・ヘーネスファウルを誘い、PKを獲得。これをニースケンスが決めてオランダくも先制する。しかし、ここから西ドイツベルティ・フォクツの執拗なマンマークによって動きを封じ込められてしまう。クライフが封じられたことでオランダのトータルフットボールは機不全に陥ってしまい、前半のうちに逆転を許してしまう。後半もフォクツのマークによって思ったようにプレーさせてもらえず、オランダは敗れて準優勝に終わるのだった。
とはいえ、この大会でオランダが見せたフィールドポジションではなくスペースから考え、ポジションが存在しない革命的なスタイル世界中のサッカーシーンセンセーションを巻き起こし、「大会を通じて最も優秀なチーム」と評された。サッカーの在り方そのものを変えたオレンジ軍団の中心にいたクライフは世界中から称賛を受け、1974年バロンドールベッケンバウアーではなくクライフが選出され、これが自身にとって3度の受賞となった

ワールドカップ後にミケルス監督は退任したが、クライフを始め多くの選手たちが残ったまま、1976年6月ユーゴスラビアで開催されたUEFA欧州選手権1976本大会に出場。優勝補筆頭と見られたオランダだったが、大会直前に協会と選手の間で内紛が勃発したもあって準決勝のチェコスロバキア戦で延長戦の末に敗れてしまう。3位決定戦では開催ユーゴスラビアを相手に勝利し、オランダは3位入賞を果たすが、クライフは累積警告のためこの試合を欠場していた。

欧州選手権後におこなわれた1978 FIFAワールドカップ欧州予選では7試合3得点記録1977年3月26日ベルギー戦ではゴールを決め、オランダを2大会連続の本大会出場に導く。ところが、このベルギー戦を最後に代表から引退することを表明し、本大会への出場を辞退。理由としては様々な憶測が飛び交ったが、後年になってクライフ自身が1977年に発生した息子誘拐未遂事件が大会辞退のの理由だったことを明らかにした。オランダ代表通算48試合33得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1964-65 アヤックス エールディヴィジ 10 4
1965-66 アヤックス エールディヴィジ 19 16
1966-67 アヤックス エールディヴィジ 30 33
1967-68 アヤックス エールディヴィジ 33 25
1968-69 アヤックス エールディヴィジ 29 24
1969-70 アヤックス エールディヴィジ 33 23
1970-71 アヤックス エールディヴィジ 25 21
1971-72 アヤックス エールディヴィジ 32 25
1972-73 アヤックス エールディヴィジ 26 16
1973-74 アヤックス エールディヴィジ 2 3
バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 26 16
1974-75 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 30 7
1975-76 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 29 6
1976-77 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 30 14
1977-78 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 28 5
1979 ロサンゼルス・アゼテックス NASL 27 14
1980 ワシントン・ディプロマッツ NASL 27 10
1980-81 バン セグンダ・ディビジオン 10 2
1981 ワシントン・ディプロマッツ NASL 5 2
1981-82 アヤックス エールディヴィジ 15 7
1982-83 アヤックス エールディヴィジ 21 7
1983-84 フェイエノールト エールディヴィジ 33 11

個人タイトル

指導者としての経歴

アヤックス

引退から1年後の1985年6月、古巣であるアヤックス・アムステルダム監督に就任。就任当初は導者ライセンスを取得していなかったことから「テクニカルディレクター」という肩書だった。監督としてのクライフは1970年代の攻撃的なスタイルへの回帰を掲げ、この頃から3-4-3の攻撃的なフォーメーションを採用。さらに、デニス・ベルカンプアーロン・ヴィンダーといった10代の若手を積極的に起用するなど、チーム改革に着手していた。就任1年の1985-86シーズンはクライフの思惑通りアヤックス120得点記録したが、エールディヴィジタイトルPSVアイントホーフェンに奪われる。一方、KNVBカップ優勝し、監督としての初タイトルを獲得。

就任2年の1986-87シーズンも自らの思想を選手たちへと植え付けたチーム作りをおこなう。テクニカルディレクターという監督に上をいく肩書であるため、クラブトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理していた。この年もリーグタイトルは逃したもののKNVBカップを連覇。さらにUEFAカップウィナーズカップでは、1.FCロコティヴ・ライプツィヒを破り、自身が選手時代に成し遂げて以来14年ぶりのタイトルをもたらす。

しかし、クライフの独善的なやり方は次第にクラブ上層部から疎まれるようになり、自身に断でエースマルコ・ファン・バステンACミランへ移籍させたことでトンハルムセン会長との確執が決定的なものとなる。1987-88シーズン途中の1988年4月にクライフはアヤックスを去ることとなり、両者は三度喧嘩別れとなったのだった。

バルセロナ

1988年5月4日、もう一つの古巣であるスペインFCバルセロナ監督に就任。クライフが就任した当時のバルサは低迷期が続いており、カンプ・ノウのスタンドには抗議ハンカチが毎試合乱舞する有様だった。さらに選手肖像権に関する税金未納問題が合発覚し、選手たちが会見を開き、会長クラブ役員の辞任をめ「エスリアの反乱」と呼ばれる前代未聞の内紛が勃発する最悪の泥沼状態に陥っていた。ついにはソシオからも想を尽かされ、ホセルイス・ヌニェス会長轢のあったクライフを呼び戻し、自らの政権を維持しようとしていた。「エスリアの反乱」に加わった多くの選手が他クラブ放出され、容が大幅に入れ替わった状況で一からのチーム作りを進めなければならなかった。だが、クライフにとってこの状況はむしろ追いとなった。自らの哲学アヤックスで採用されている攻撃的サッカークラブに浸透させるためクラブの改革に着手していく。

就任1年1988-89シーズンは自らの哲学を浸透させるのに時間がかかったこともあり、リーガでは首位レアル・マドリードと勝ち点5差の2位に終わる。しかし、UEFAカップウィナーズカップでは決勝でUCサンプドリアを下し、1年タイトルを獲得する。

1989-90シーズンロナルドクーマン、ミカエル・ラウドルップが加入するが、スター選手だったゲーリー・リネカーと揉めた挙句に放出したことでソシオたちから不満が出るようになる。クライフは自らのスタイルを押し通すも、ウーゴサンチェスやエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードリーガ5連覇を許すことになり、ソシオの間で解任を要される。しかし、ヌニェス会長が擁護する立場を採ったことに加え、マドリーを破ってコパ・デルレイタイトルを取ったことでどうにか解任を免れる。

1990-91シーズンになると、下部組織出身のジョゼップ・グアルディオラアルベルトフェレールを抜。トータルフットボールをさらに進化させた、エンタメ性あふれる攻撃サッカーを展開し、チームは快進撃を見せるようになる。シーズン最中の1991年2月26日心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため、復帰するまでの間は代理として副官のカルロス・レシャックが揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離し、バルサに6シーズンぶりのリーガ優勝をもたらす。

1991-92シーズンになるとペップ・グアルディオラチームの中心選手にまで成長し、クライフの理想が完璧なまでにピッチ上で体現されるようになる。アヤックス流とするボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーバルサスタイルとして定着するようになり、「魅せること」と「勝つこと」を同時に実現するようになる。リーガではレアル・マドリードとの優勝争いに最終節での大逆転という劇的な形で競り勝ち連覇を飾る。UEFAチャンピオンズカップでも決勝に進出。ウェンブリースタジアムでの決勝では、延長戦に入ってクーマンがFKからの直接ゴールを決め、クラブ史上初となるビッグイヤーを獲得。この偉業を成し遂げたクライフのバルサバスケドリームチームになぞらえて「エルドリームチーム」と称されるようになり、伝説チームとして語り継がれることになる。

1992-93シーズンリーガでは最終節でレアル・マドリードとの勝ち点1差をひっくり返しての逆転劇を再現クラブ初となるリーガ3連覇を成し遂げる。「エルドリームチーム」は魅力的なサッカー世界中から多くのファンを獲得し、バルサ世界的なブランド価値のあるクラブへと成長する。一方でクライフの言動が災いし、スター選手との確執が伝えられるようになっていた。

1993-94シーズンにはクライフがその才に惚れ込んだロマーリオが加入。ロマーリオ、フリスト・ストイチコフというのようなアタッカーが実現する。リーガではまたしても最終節でデポルティーボ・ラ・コルーニャと勝ち点で並んで首位という状況ながらも得失点差で上回って4連覇を達成。チャンピオンズカップではFCポルト相手に快勝し、2シーズンぶりの決勝進出を果たす。ギリシャアテネでの決勝はACミランとの対戦となり、当時最強と見られていた2チームの対戦だけに世界中から注された一戦となった。ところが、バルサ底的に研究してきたミランの前に0-4という悪夢のような敗戦を喫してしまう。この大敗が「ドリームチーム」の崩壊の始まりだと言われている。

1994-95シーズン外国人の関係で出場機会が減っていたラウドルップが宿敵レアル・マドリードに移籍。さらにシーズン途中にロマーリオホームシックにかかって退団してしまう。この問題を発端に元々確執のあったストイチコフがクライフ体制を痛批判し、対立が決定的なものとなる。そんな内紛が勃発したことでチーム内の雰囲気は悪くなり、リーガでは4位と低迷。就任して初めて冠に終わる。シーズン終了後、ストイチコフとクーマンが退団。サイクル終焉にも明らかだった。

を築き上げてきた大半の選手を失った1995-96シーズンは新たなドリームチーム構築のために若手を積極的に起用する原点回帰を図る。その中には自らの息子であるジョルディ・クライフも含まれていた。しかし、これまでドリームチームの栄の恩恵に乗っかっていたヌニェス会長が手のを返し、「クライフは誤った決断を下した」「自分の利益のためにバルサを利用しようとした」と告発。すでに後任としてボビー・ロブソン契約を交わしており、バルサ世界的な人気クラブへと発展させたクライフは別れの挨拶すらさせてもらえず、解任を告げられる。

監督経歴

シーズン クラブ リーグ 順位 獲得タイトル
1985-86 アヤックス エールディヴィジ 2位 KNVBカップ
1986-87 アヤックス エールディヴィジ 2位 KNVBカップ
UEFAカップウィナーズカップ
1987-88 アヤックス エールディヴィジ
1988-89 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 2位 UEFAカップウィナーズカップ
1989-90 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 3位 コパ・デルレイ
1990-91 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 1位 リーガ・エスパニョーラ
1991-92 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 1位 リーガ・エスパニョーラ
UEFAチャンピオンズカップ
スーペル・コパ・デ・エスパーニャ
1992-93 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 1位 リーガ・エスパニョーラ
UEFAスーパーカップ
スーペル・コパ・デ・エスパーニャ
1993-94 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 1位 リーガ・エスパニョーラ
1994-95 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 4位 コパ・デルレイ
スーペル・コパ・デ・エスパーニャ
1995-96 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 3位
20092013 カタルーニャ州選抜 - -

※は途中退

引退後の経歴

バルセロナ退団後は現場を離れ、子供スポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を的としたヨハン・クライフ大学を設立し社会貢献に努める。一方で自らを追いやったヌニェス会長との仲は険悪なものとなり、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展するほどの舌戦を繰り広げる。

バルサ会長選にも大きなを与えており、ソシオの間でもクライフとヌニェスに分裂する事態となった。2003年友人であるジョアン・ラポルタ会長に就任するとクラブへの発言力を取り戻し、教え子であるフランクライカルト監督推薦。結果的に暗黒時代に突入していたバルサは再びリーガ覇権を取り戻し、非公式ながらもラポルタ会長のアドバイザーとして力を行使していた。

オランダサッカー協会に対しても力は持ったままで、2004年には子でもあるマルコ・ファン・バステンオランダ代表監督推薦し、就任を実現させている。

2008年2月19日アヤックスが新たに設立したテクニカル部門の責任者として迎え入れられる。ところがその2週間後に監督に就任したファン・バステンとの意見が対立。この時点でアヤックスへの復帰は正式に決まっておらず、「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退する。

2009年11月9日カタルーニャ州選抜の監督に就任。初采配となったアルゼンチン代表との試合には4-2で勝利2012年1月2日ナイジェリア戦まで監督を務め、4試合2勝2分という成績を残す。

2010年4月クラブへの貢献度の高さが認められ、バルセロナの名誉会長職に就任。ところが、7月会長になったサンドロ・ロセイはクラブの規定によって名誉会長職は存在しないという立場を取ったことで名誉会長職を剥奪される。

2011年2月アヤックステクニカル・アドバイザーに就任。トップチームのみならず育成部門まで大幅な組織改革をおこなうが、クラブの理事がの仲であるルイス・ファン・ハールをクライフに断でGMに就任させようとしたことが発端となり、クラブ告訴する事態となる。結局、クライフ側の差し止め請が認められる形となったが、2012年4月テクニカル・アドバイザーを辞任。

2012年2月25日メキシコCDグアダラハラのテクニカル・アドバイザーに就任。高額な報酬を受け、クラブの全権を与えられる格好となった。任期は3年だったものの、チームの成績不振もあって9か後に契約解除となる。

2015年10月22日スペインバルセロナ病院で検を受けた際にがんが発見されたことを発表。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナSDエイバル戦や、10月23日から10月25日にかけて行われたエールディヴィジの全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客によるスタンディングオベーションが行われた。

2016年3月24日、闘病生活の末にバルセロナ内の病院にて死去。享年68歳。
彼の死に際してオランダ国王のウィレムアレクサンダー、現役時代にライバル関係にあったフランツ・ベッケンバウアー、教え子のジョゼップ・グアルディオラをはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた。訃報の翌日にアムステルダムアレナで開催されたオランダ代表対フランス代表の試合では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた。

2017年、その功績の大きさからオランダ史上初、スポーツ選手として5ユーロ硬貨に刻まれることになった。この硬貨はヨハン・クライフ財団が発足した日である9月20日から発行された。2018年4月5日、クライフの功績を讃える的でアヤックスホームスタジアムであるアムステルダムアレナが「ヨハン・クライフ・アレナ」へ改名される。

プレースタイル

ポジションセンターフォワード(今でいう偽9番)だが、攻撃的なポジションならどこでもこなしていた。むしろ従来のポジション概念に縛られず、守備に参加し、MFとしてゲームメイクも自ら行い、最後はFWとしてフィニッシュもするというオールマイティな選手だった。まさに「トータルフットボール」を体現するプレイヤーであり、プレービジョンがはっきりしているのでどこでプレーするかよりどうプレーするかで際立っていた。

もっとも得意としているドリブル突破はスピード抜くというよりは間的な加速と急停止を使い分けた緩急で相手をかわして自らシュートに持ち込むプレーを得意としていた。相手のタックルを柔軟なボールタッチフェイントで飛び越えるようなスタイルから「飛ぶオランダ」の異名がついた。左のハーフスペースがもっとも得意なエリアであり、ドリブルボールを運びながら周囲を見て、決定的なプレーに繋げていた。

右足アウトサイドキックも彼の代名詞であり、FKを右足アウトで蹴り、左サイドからのクロスも右足のアウトで入れていた。一方、左足アウトサイドで長いボールを入れることもでき、インフロント蹴るときは足の甲を立てるような独特なフォームを使用していた。クライフは「右足のインアウト、左足のインアウト、これで4種類のパスが出せる」と語っており、両足のアウトサイドを的確に使えることで、ワンステップ分チャンスをつかもうとしていた。

体が細かった分、パワー不足が一の弱点で、ピンポイントのパスやシュートを得意としていた反面、強なミドルシュートや強キックは使用していなかった。とはいえ、体の使い方がうまく、相手からの厳しいチャージに対してもブロックできており、まさに「柔よく剛を制す」を体現していた。また、クライフのビジョンを理解し共有できる選手が周囲にいないと持ち味が半減してしまい、まさにチームを選ぶ選手だった。また、独善的な性格が災いしてチーム轢を生むことも多かった。

クライフターン

クライフの代名詞ともいえるドリブルテクニックであり、パスを出すふりをしてボールを足のインサイドで軸足の後ろに通し、体を90度回転させ、これにより、相手を置き去りにして加速し、方向転換しながら相手の意表を突く。1974 FIFAワールドカップスウェーデン戦でクライフが見せたことで有名になり、すぐに世界中のサッカー選手によって模倣された。

ボールの横に軸足を置き、フェイント後に軸足の後ろにボールを置く。基本的には1対1の局面で使用されることが多く、クライフ自身もサイドの突破する際に多用していた。裏をかかれたDFは遅れて足を出すためファウルを貰いやすく、決まれば一気に局面を打開できる。とはいえ、実際の試合で行う際は広い視野の確保が必要で、密集地帯での使用は難しく、広大スペースが必要となる。

監督としての戦術

クライフの哲学ボールポゼッションであり、3バックの開始時点から、ボールの動かし方によって4バックなど複数のシステム時に変化する可変システムを採用。選手がボールを運ぶ位置や状況に合わせてポジションを変えることで、相手の守備の基準点を狂わせながらボールを前に進めていく。

ただしクライフはティキタカのようなポゼッションのためのポゼッションは意味をなさないと考えており、相手のゴールに向かい、そのためにボールを保持することを大前提としていた。ボールを動かすことで相手のバランスを崩し、危険なエリアスペースを生み出して、得点機会に向けて加速する。そのために選手間に多くの三角形を作り、ボールの動かし方の起点を作ることで局地的な数的優位を作り出し、効率的かつ効果的にボールを前身させる。有名な「ボールは疲れない」という哲学に基づき、選手に必要以上の走行距離めず、頭を使った「良いポジションへのタイミング」を重視していた。

中盤の底に位置するアンカー(4番)の位置にジョゼップ・グアルディオラのような技巧を置き、パスワークの中心として、いわゆるとしてピッチ上に振る舞うことをめていた。この4番がクライフのサッカー心臓であり、もっとも重要な役割のプレイヤーとなっていた。逆にダイヤモンドの中盤の頂点に位置するトップ下は10番タイプというよりはホセマリア・バケーロのような縦パスを収めて少ないタッチボールを散らせるポストプレーをこなせる選手で、4番の選手からの縦パスの受け手となり、少ないタッチシンプルに繋げることをめられた。

ウイングには両サイドタッチラインいっぱいに開いてボールを受けることがめられ、横幅を確保することが要されたが、チキ・ベギリスタインのような典的なウインガーを片方のサイドに置き、逆サイドにはストライカータイプフリオサリナスやフリスト・ストイチコフが起用されることが多かった。そしてセンターフォワードにはミカエル・ラウドルップのような偽の9番を置く。偽の9番が中盤に下がってボールを受けることでゴール前にスペースを作り、このスペースに横幅いっぱいに開いていたウイングが飛び込むというのが得点パターンであった。なお、ロマーリオのようなストライカータイプセンターフォワードに置いた場合はウイングのストイチコフが状況に応じて2トップの位置に移動する疑似2トップを採用していた。

これらのクライフの哲学は、監督となったグアルディオラに代表されるバルサスタイルの礎となって受け継がれており、21世紀になって広まった「ポゼショナルプレー」もクライフの思想が流となっている。

エピソード・人物

おもな名言

美しく勝利せよ!

美しく敗れることは恥ではない。無様に勝つことを恥と思え。

サッカーは美しくなければならない。美しいというのは攻撃的でテクニックに優れ、3、4点とゴールが生まれ、見て楽しいサッカーだ。

ボールを持てば私が役だ。決定するのは私で、創造するのも私だ。

私のチームでは、キーパーが一人のアタッカーで、フォワードが一人のディフェンダーだ。

を育てる監督よりもつぶしてしまう監督のほうが多いものだ。だから監督をつけられたからといって、よい結果につながるとはかぎらない。

力のないプレーヤーほど、他人のミスを責めたがる。

よほどのしでないかぎりFWの走る距離は15mで十分だ。

フットボールチームには一人の独裁者が必要である。そして、バルセロナ独裁者わたしである。

ボールを持っていれば、点を取られない。

サッカーとは頭で考えるスポーツである。

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