平山菊二(ひらやま きくじ)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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平山菊二 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県下関市 |
生年月日 | 1918年9月23日 |
没年月日 | 1998年5月28日 |
身長 体重 |
176cm 67kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1937年 |
引退 | 1953年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
卒業後、広島鉄道局に入社。内野手としてプレーしていたが、当時の監督が強肩を活かせないのはもったいないということから外野手に転向している。
チーム合流直後のキャンプで良いところを見せようと必死に打球を追いかけた際、コンクリート塀に顔面をぶつけ負傷。フェンスに対して恐怖心が生まれてしまったという。入団から2年間は控えの外野手としてプレー。
1939年、7番レフトのレギュラーの座を獲得。同年は88試合に出場して、打率.307、42打点、20盗塁を記録。
以降もレフトのレギュラーとして活躍し、1941年まで3年連続で2桁盗塁を記録。
1942年、応召を受け、ビルマ戦線に出兵。ここで地獄のように日々を過ごし、それまでの呑気な生き方が変わったという。
終戦後、1947年に巨人に復帰。戦地での日々を経てこれまで以上に野球に取り組むようになり、フェンスへの恐怖心を取り除こうと、フェンス際の打球を必死に練習したという。同年はレフトのレギュラーとして活躍し、打率.234、5本塁打、65打点、10盗塁を記録。
1948年、全試合に出場して、打率.272、11本塁打、68打点、89盗塁を記録。シーズン終了後に行われた東西対抗戦では、飯田徳治のホームラン性の打球をフェンスをよじ登ってキャッチするファインプレーで観客を沸かせ、恐怖心を克服。
1949年、主将を任され、打率.273、10本塁打、65打点、22盗塁を記録し、巨人の戦後初優勝に大きく貢献した。
1950年、大洋ホエールズへ移籍。人事面のゴタゴタに巻き込まれる形での移籍であった。
初年度の1950年、大洋の初代キャプテンを任されると5番打者としてクリーンナップの一角を担い、打率.274、7本塁打、74打点、35盗塁を記録。
1951年は足の故障の影響で3試合の出場にとどまり、以降は外野の準レギュラーとして起用された。
引退後は大洋で2シーズンコーチを務めた後、フロント入り。スカウトや球団常務の職を務めた。
東西対抗戦でホームラン性の打球をフェンスをよじ登るような形でキャッチしたことから「塀際の魔術師」の異名を持つ。
フットワークの良さはダンスによって鍛えられたという。ただ平山本人は『千葉茂が大げさに言っただけ』と笑いながら否定している。
性格はお人好しであり、若手の選手からも慕われていたようである。また、風格があり老け顔であったという記述も残っている。
通算:12年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1073 | 3937 | 3565 | 423 | 912 | 40 | 431 | 161 | 40 | 7 | 316 | 9 | 255 | 27 | .256 | .318 |
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最終更新:2024/12/18(水) 14:00
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