早川勇とは、幕末の志士の一人。
天保3年(1832年)年7月23日、筑前福岡藩虫生津村の庄屋に生まれる。別名早川養敬。
月形洗蔵の父で藩儒の月形深蔵に師事。月形らの尊王攘夷思想に影響を受ける。
嘉永2年(1850年)、藩医の板垣養永に随行して江戸に留学。佐藤一斎の元で学ぶ。その後福岡に戻って医者を始めたが、やがて月形ら筑前勤王党の運動に参加。
八月十八日の政変から禁門の変、第一次長州征伐を受けて滅亡の淵に立たされた長州藩に対し、藩主の黒田長溥が長州征伐に反対。その意を受けて月形と早川、加藤司書らは、西郷隆盛や中岡慎太郎と協力して五卿動座、征長中止のために周旋し、これらを成功に導いた。
薩長の関係正常化にも積極的で、薩長同盟は当初福岡藩の志士達が周旋していたとも言われる。
慶応元年(1865年)3月、情勢探索のため上京するが長州に同情的な動きを見せた福岡藩に幕府から疑惑がかけられると、長溥が佐幕に方針転換し、早川は4月に帰国させられる。以後、勤王党に対する弾圧「乙丑の獄」が始まり、月形や加藤などが処刑され、早川も処刑されかけたが長溥がのはからいで幽閉に留められる。
維新後幽閉を解かれると新政府に出仕を求められ、福岡藩において唯一生き残った人材として奈良府判事、元老院大書記官などを務める。晩年は福岡出身者の人材育成に専念した。
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最終更新:2025/12/23(火) 11:00
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