中岡慎太郎とは、めっさいい笑顔に定評のある幕末の武士である。
天保9年(1838年)4月13日、土佐国安芸郡北川郷柏木で、大庄屋である中岡小伝次の長男として生まれる。幼名は福太郎(もしくは福五郎)、3歳ごろに光次と改名している。中岡家は、地元の有力な庄屋で、名字帯刀を許された郷士身分である。
幼少の頃から利発かつ豪胆で、物心のつく頃より父から厳しい躾けを受け、4歳の頃には寺の住職から教えを受ける。7歳の頃には四書の講義を受ける為、二里(約8キロメートル)離れた隣村の塾へ片道2時間かけて通いつめ、14歳の頃には塾の講師代役を勤めるほどの神童ぶりだったという。
少年時代の中岡に関する逸話として、友人達と川に遊びに行った際、20メートルもある崖から川に飛び込んだというものがあり、その度胸に周りの大人達から「末恐ろしい」と畏怖された。
15歳の頃、後に土佐勤王党の同志となる間崎滄浪に師事し、17歳で武市瑞山の剣術道場に入門。
後年共に活躍する事になる坂本龍馬とはこの時期に知り合ったと思われる。
安政4年(1857年)20歳のころ、実家の庄屋見習いとして地元を取り仕切るようになる。同時に隣村の庄屋の長女かねと結婚。
翌年正月早々に安政の大地震が発生すると、南北45キロ、東西12キロ、14カ村の広大な区域の被害調査を自分の足で行った。二次被害で飢饉が発生したため、実家が所有していた山林田畑を抵当にして食料を買い込み、村民に分け与えた。それでも足りない為、他の村の庄屋達と協力して藩から800両を借り受ける事に成功する。更に高地まで赴いて、藩家老の屋敷の前に一夜座り込んで陳情し、中岡の態度に感心した家老によって非常用の貯蓄米が開放される事になった。
この時の飢饉を教訓として、田畑の改善や優良品種の作物を配布して栽培指導を行った他、塩の代用品として柚子を村一帯に植えるなど、目覚ましい活躍ぶりを見せた。
なお、柚子は現在の北川村の特産品となっており、当時木が植えられた場所は「光次の並木」と呼ばれている。
文久元年(1861年)8月、転機が訪れる。剣術道場時代の師範だった武市瑞山が、郷士を中心とする政治結社「土佐勤王党」を結成し、これに中岡も参加。血盟書には192名のうち17番目に名を連ねている。
文久2年(1862年)4月、武市の指示の下、勤王党員数名によって佐幕派の参政・吉田東洋が暗殺された。これにより、吉田の政敵だった藩内の門閥派を味方につけることに成功し、以後山内容堂による弾圧が開始されるまで勤王党が土佐藩内の主導権を握る事になった。
10月、勤王党有志は、隠居・山内容堂の身辺警護を理由に江戸出府の願いを出すが、藩庁から許可が下りなかったため、五十人組なる組織を結成して、嘆願書を藩庁に届けたまま許可を待たずに自費による江戸行きを決行した。この五十人組の中で8人いた伍長のうちの1人に中岡が名を連ねている。
江戸へ向かう途上、10月に京都に滞留していた際に、中岡は乾退助(後の板垣退助)を斬ろうとしていた。乾は土佐藩の上士で、山内容堂の側用人を務める重臣であり、五十人組に対抗して臨時組なる組織を結成し、脱藩同然でやって来た五十人組を斬罪に処すべしなどと唱えていたためだったが、結局双方矛を収めている。
11月16日に江戸に到着し、12月3日に容堂に謁見。この頃に名前を光次から慎太郎に改めた。
同月、長州藩の久坂玄瑞や山県半蔵と共に諸藩を歴訪し、途上で信州松代藩の佐久間象山と会談している。当時佐久間は、かつての吉田松陰密航未遂事件に連座しての蟄居から解放されたばかりで、中岡は藩からの内命によって佐久間を土佐藩に招聘する目的で赴いたとされる。
「幕府が築造してる品川台場の砲台、あれ全然役立たねーよ(´,_ゝ`)プッ
トルコが海上に砲台作ったことあるけど、海面に立ててどーすんだよってエゲレス人に笑われてっぞ(´,_ゝ`)プッ」
「この尖形弾丸、これに回転付けて発射することで火縄銃なんぞ比較にならん遠距離まで銃弾を発射できるんだぜ、知ってっか?知らねーだろ(´,_ゝ`)プッ」
「まあオマイラも漏れみたいな偉人になりたきゃ、西洋の芸術と東洋の道徳を兼ね備えるこった(´,_ゝ`)プップッ」
と、イヤミったらしい知識自慢を披露された中岡達は、門の外へ出ると「参ったな」と顔を合わせて苦笑したという。
「久坂を顧みて曰く、象山の気魄に圧せられたりと。
久坂亦苦笑し曰く、我亦其の感ありと。
然れども中岡は、是れより脳疾払ふが如く、神気頓に快活を覚えたりと云ふ」
(『維新土佐勤王史』)
なお、招聘に関しては佐久間が渋ったのか実現しなかった。
文久3年(1863年)2月7日、中岡他同士数名が京都土佐藩邸にて上洛した山内容堂に謁見した。容堂が酔いながら大声で威圧的な言動を繰り返すと、中岡が進み出て公武合体論を暗に諌めたが、更に絡んできたため手に負えないと感じてそのまま退出した。
公武合体派の容堂は、自分の足元で政治に関与しようとする尊王攘夷派、なかんづく郷士を疎んじており、いずれ一斉に始末しようと考えていたが、この時の中岡の態度を買ったのか、土佐への帰国の間のみ郷士の最上級職である御徒目付に登用している。
上洛後、勤王党員で中岡の師でもあった間崎滄浪他数名が、青蓮院宮(朝彦親王)から令旨を授かった事を身分を弁えない出すぎた真似として捕縛され、6月に切腹の処分が下された。
これが皮切りとなり、同年に起きた八月十八日の政変を機に土佐勤王党員の一斉処断が始まり、中岡の身にも危険が迫っていた。
土佐への帰国後、中岡は一旦郷里北川村に戻っていたが、8月に京都で起きた政変について聞くと、京都の政情を探る為脱藩を決意。父と妻に対して所用があるため高知に行ってくると告げて9月5日に旅立つ。これが家族と故郷との今生の別れとなった。
また、この時期に高知に戻ってきていた乾退助と面会を果たしており、その席で中岡と乾は腹を割って話し合った結果和解した。後年板垣と姓を改めた乾が、この時のことについて談話を残している。
『乾「(上略)まず、あなたに尋ねたいことがある。あなたは京都で私を殺すつもりではなかったか?(^ω^)」
中岡「いや、そんなことはない(゚з゚)」
乾「それはけしからん!(`・ω・´)
中岡ともあろうものがそのような女の如き態度であるとは、失望のキワミだ…(´・ω・`)」
中岡「これは心外千万!如何にもその節はあなたを斬る覚悟であった!(`・ω・´)」
乾「そうだろう。その心底はとくと見抜いていた。いや、それでこそ話が出来る(^ω^)」
(中略)
乾「勤王の事についてはあなたなどに譲らぬ覚悟である!(`・ω・´)
今あなたの同志と事を共にしている上士に何か事の出来るものがあるか?
皆諸君にへつらって、そのくせ何事も出来ぬ俗物だ(´,_ゝ`)」
というと中岡は私に向かって
中岡「あなたはまことの男子と見込んだ!(`・ω・´)
どうか将来我々を引き立てて大いにやって頂きたい!」
と云って別れた。後日、中岡は何分自分の身上がもてぬから脱藩するが、いつかは赤心の現れるときが来るだろう、という手紙を私に寄越して脱藩してしまった』
9月19日、三田尻に着き、三条実美ら都落ちした七卿が居留していた招賢閣にて面会。21日、三条の使者として土佐へ戻り、10月上旬に入国するが、道中で危険を知らせに来た同志と鉢合わせした。
藩の内情を聞くと、武市以下土佐勤王党員は既に一斉に投獄され、自身にも追っ手が迫っており、藩内での挽回が不可能と悟った中岡は、同志たちと別れの杯を交わして、海路で大阪を経由して三田尻へ戻り、そのまま長州藩へ亡命した。
以後再び土佐藩の土を踏むことは無く、生涯を国事に捧げることになる。
10月19日夜、三田尻到着後、三条らと面会し、土佐の状況を伝え同志として迎えられ、翌月、会議員に推薦される。
翌年文久4年(1864年)1月、京都の状況を探る為に上洛。薩摩藩の状況を探る為、西郷信吾(従道)や中村半次郎が通っていた塾に偽名で入門している他、長州藩邸にて高杉晋作と共に、朝廷を公武合体論でまとめようとする島津久光の暗殺計画を立てるが、警備が厳重なまま薩摩に帰国した為中止し、5月一旦長州へ戻る。
この時、土佐藩に残った同志たちに対して決起を促す檄文を送っており、これが後に二十三士野根山屯集強訴事件の悲劇に繋がる。
元治元年(1864年)6月9日、長州に兇変が知らされる。6月4日に京都池田屋で新撰組による襲撃事件が起こり、宮部鼎蔵や吉田稔麿他十数名が斬殺、あるいは捕縛されたと言う。
知らせを受けた長州藩では真木和泉・来島又兵衛ら過激派を抑えられなくなり、率兵しての上洛を開始した。中岡もこの中に加わっており、武力衝突が起こる前日の7月18日には、死を覚悟した遺書を家族に宛てて送っている。
一筆呈上奉り候。
(中略)
去る八月十八日以後、恐れながら天朝の御所置・御齟齬の次第は、全く会津薩州らの奸計よりかかる次第に成行候事…
(中略)
実に皇国の大罪逃るる所にあらずと、一同決心罪を数え鼓を鳴らして其(会津・薩摩)の罪を討んと相謀、公然として是を天朝に願い奉り、列藩に檄を伝え、直様突入せんと相決し申候。さすれば私共も最早この限りの命と御あきらめ仰せ付けられるべく候。
(下略)
19日、来島率いる遊撃隊に加わり御所に向け進軍を開始した。蛤御門に至る途上で足に銃撃を受けて戦線離脱し、敵陣に紛れて危うく難を逃れる。圧倒的な兵力差の前に長州軍は敗退し、真木、来島の他、文久以来の友人であった久坂玄瑞も追い詰められ自害した。
禁門の変後、中岡は7月下旬に三田尻に帰還し、8月に忠勇隊長に任命され、9月京都偵察のため大阪に向かったが、そこで土佐藩にて同志23人が斬首されたという知らせを受けた。
武市瑞山の助命嘆願の為に集まり、抗議文を藩庁に届けたことがきっかけで捕縛され、一度の審問も行われずに全員川原で首を斬られたと言う。
まだ20歳に満たない少年が数名の他、かつて中岡が説得して同志として引き入れた者たちや義理の兄も含まれており、血涙の中自制を促す返信を送った。
京都変動以来、長州も朝敵の名を蒙り、逆臣益々跋扈、実に天下の大事に至り申し候。
(中略)
又今冬来春の中、夷賊摂海に来寇するの説あり、是に於いて天下の大事去就相定まり申すべく、実に天下ムチャクチャに相成り申し候。
(中略)
天下挽回再挙なきにあらず、然しながら今暫く時を見るべし。依て沸騰及脱藩は甚だ無益なり。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし」
禁門の変後、馬関戦争から第1次長州征伐へと至り、フルボッコ状態の長州藩において、中岡は藩三家老の助命嘆願を同志と連名で久留米藩と筑前福岡藩に提出するが聞き入れられず、次いで都落ちした五卿(うち2名は出奔・病死で脱落)を福岡藩に動座させるという恭順の条件に反発を感じたため、動座の真意と安全を確認するために動き始めた。
筑前勤王党の志士である月形洗蔵や早川養敬と下関で会い、五卿の身の安全を保障する旨を確認すると、今度は動座を提案した西郷隆盛に真意を確認するため、12月会談に臨んだ。
場合によっては西郷を殺すことも考えていたが、「五卿を筑前に動座させれば、公武においても寛大な御処置を下さるよう力を尽くして周旋に努め申す」と説得されてこれを受けいれた。
この時期に、先の筑前勤王党の月形・早川、土佐脱藩浪士の土方楠左衛門と交流するうちに、政体変革を起こすには薩摩と長州の連携が必要だという考え方に影響を受ける。
筑前勤王党は翌年慶応元年(1865年)に福岡藩内で失脚し、月形ら主要構成員が処刑されたため、中岡、土方、そして坂本龍馬がこの困難な仕事を引き継ぐこととなった。
慶応元年(1865年)2月から5月にかけ、中岡は三条実美ら五卿の居る大宰府-京都の薩摩藩邸-下関の間を駆け回り、薩摩藩士の岩下方平、吉井幸輔や長州藩士の桂小五郎、村田蔵六、伊藤俊輔と連絡を取り合い、両藩の連携を模索する。
5月、京都薩摩藩邸にて薩長和解について了解を得、5月24日岩下と共に西郷の居る鹿児島に赴いた。
閏5月6日、鹿児島に到着し西郷を説得。15日に西郷を伴い鹿児島を発ったが、18日佐賀に寄った際に長州再征が京都で持ち上がっているという情報がもたらされた為、これを阻止するほうが先決とした西郷は下関に寄らず大阪に向かってしまった。
21日、下関で待機していた坂本龍馬に会って以上の事を伝えると、一緒に居た桂小五郎が激怒した。桂が帰ろうとするところを坂本と一緒に宥めた後、29日、坂本と共に京都薩摩藩邸に向かって西郷と会い、長州側の要求について根気強く説得を続けた。
その後も京都-下関-太宰府の間を飛び回って周旋を続けている。活動中、長州藩内部で行動に疑念をもたれていることに関して桂小五郎に宛てた手紙が残っている。
「僕が心事は先生(桂)が疑うが、諸隊が疑うが、府(長府)人が疑うが、また天下の人皆疑うが、死余求め無きの一廃生、少しも憂うるところ御座無く候」
(『慶応元年8月6日 桂小五郎宛手紙』)
11月22日、太宰府の五卿の応接係に任じられた中岡は、一旦周旋活動から離れる。12月25日、下関にて西郷と話し合うため京都に赴こうとする桂小五郎を見送った。
この時期中岡は、来るべき時代を見据え『時勢論』を執筆している。
「自今以後、天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし、吾思ふに、天下近日の内に二藩の令に従ふこと鏡にかけて見るが如し、他日国体を立て外夷の軽侮を絶つも、亦此の二藩に基づくなるべし」
(中岡慎太郎『時勢論』)
この年はまさに薩長同盟のために奔走し続けた年であり、このわずか2年と数ヵ月後には『時勢論』で著したとおりの状況となっていくのであった。
翌年慶応2年2月上旬、太宰府から下関へ向かい、京都から戻った桂小五郎から同盟成るの知らせを受けると、中岡はすぐに京都薩摩藩邸に向かい、同盟成立直後に寺田屋で負傷した坂本を見舞うと同時に、坂本とお龍との結婚を祝い媒酌している。
3月5日、薩摩藩の蒸気船三邦丸で西郷、小松帯刀、坂本、お龍、そして寺田屋で坂本を救った長府藩士・三吉慎蔵と共に出航。6日に三吉と共に下関で降りた。
薩長和解は坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。
中岡は、高杉がまだ長州の内訌を回復せぬ前、四境には兵が囲んでおり、殊に遊撃隊に身を置いて、其苦心は一方ならぬものであった。
(中略)
長州における坂本と中岡の尽力を見るに、華出(はで)な事は坂本に属するが、中岡はどうかというに、この人ほど苦心した者は無いと思う。
(旧福岡藩士・早川養敬談)
慶応2年(1866年)6月、第2次長州征伐が始まる直前、中岡は高杉晋作と会談し、その模様を書き残している。
不肖の拙者一命の限りは御安心下さるべし。
古より天下の事を任ずるものは、大義を以って本と為し、決して人を顧みず、わづか二州(周防・長門)の興亡を私し、此(かか)る皇国の大危難を救い奉る事能はず、何の面目か天下の有志に対せん。
今日は別れ近き故、外ならぬ赤心の話と云いて涙泣の談にて畢(おわ)り候事。
同月、長州藩四境にて戦闘が始まり、8月には幕府軍が撤退。長州側の勝利となった。
長州の勝利を見届けた中岡は、10月26日付けで『時勢論』に続く論策『窃(ひそか)に知己に示す論』を著述している。
その中で、ロシア、清、アメリカの危険性を訴え、後々こられの国々と戦争になる可能性があることを示唆している。更に幕府に関して、徳川家は一刻も早く政権を朝廷に返し、自ら一諸侯にまで下るべきであると説く。これは翌年に坂本龍馬が周旋活動をする大政奉還そのものである。
次いで翌11月に著した第3の論策『愚論窃に知己の人に示す』では、長州藩の軍制改革を例に挙げ、土佐藩でも同様の軍制改革を行うよう提唱し、また、攘夷とは外国の圧力を撥ね退け国家の独立を守る為の闘争であり、列強と言われる国々もかつて攘夷を行っていたとし、従って攘夷とはただの排外主義ではなく、国家・民族の統一と独立の為の運動であると説いた。
同月、土佐藩から大監察の福岡藤次と小笠原唯八が上洛した。小笠原はかつて中岡の23人の同志に斬首を命じた張本人であったが、その小笠原自ら中岡の実力を認めて中岡を訪ねている。中岡は小笠原に対し、『愚論窃に知己の人に示す』に書いた内容を説き、小笠原とも和解したと言われ、この後土佐藩と薩摩藩の間を取り持つようになる。
また、この11月に義理の兄が中岡を訪れ、父の小伝次が6月に亡くなったことを伝えた。享年86歳と言う長寿だった。
慶応3年(1867年)2月、前年末の孝明天皇崩御の喪に服していた中岡は、再び活動を開始した。
27日に出立し、3月2日、鹿児島に着くと西郷の屋敷に赴き、前月に西郷が土佐で行った、山内容堂への上洛周旋について詳細を確認した。相変わらず佐幕論を捨てていない容堂だったが、上洛自体は受け入れていた。
5月18日、京都に居た中岡は、江戸から来た乾退助の歓迎会を行っている。席上、中岡と乾は以下のようなやり取りをしたと言う。
『中岡「今日の方策は如何になさるや(`・ω・´)」
乾「容堂公の御前に出て諫死の覚悟でござる(`・Д・´)」
中岡「諫死結構なり。しかし今日、一身を潔くして、皇国の行方はどうなさるか?
乾殿がかかる短慮の方とは知らざかった。此方一期の不覚でござった(`_ゝ´)」
と、諫死をたしなめ、乾もそれに従ったため、納得した中岡は、乾を西郷隆盛と会わせ、提携を結ばせようとした。
『乾「吉井(幸輔)のお働きがあったが、幣藩(土佐藩)は俗論(佐幕論)が多く、折角のご尽力に背いた訳
で、誠に面目次第も無い(´・ω・`)
しかし私に同志がないわけではないので、一朝ことあれば我々が藩を代表して参戦する。
ここに30日の猶予を与えてくれるなら、必ず兵を纏めよう。それが出来なかったら割腹してお詫び
するまでだ(`・ω・´)」
私がこう約束すると、中岡が側から
中岡「私は西郷さんの元に人質になろう。乾さんにそれが実行できなかったら私が腹を切る(`・ω・´)」
と言う。西郷は是を聞くとよほど満足の態であった。
西郷「これは近来の快事。誠に立派な約束である。一議に及ばず御同意申す( ◕ω◕ )」
と言った挨拶で約束が出来た』
この会談から1ヵ月後の6月22日、中岡・坂本2人の浪士の巨魁列席の元、土佐藩と薩摩藩の間に薩土盟約が結ばれた。
同じ頃、『愚論窃に知己の人に示す』に続く4つ目の論策『時勢論』(慶応元年の論策と同題名)を執筆している。
誠に我が神州危急存亡、今日に居たりて極まれり。
いやしくもその国民たるもの、豈に傍観すべけんや。
誠に古人言う所の如く、村ある者は村を投げ打ち、家財あるものは家財を投げ打ち、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀を尽くし、一技一芸ある者はその技芸を尽くし、愚なる者は愚を尽くし、公明正大、各々一死を以って至誠を尽くし、然る後政教立つべきなり。
武備充実すべきなり。
国威張るべく、信義外国に及ぶべきなり。
いやしくもよく斯くの如くならば、豈に皇運挽回の機なからんや。
豈にまた外藩(外国)を制するの術なからんや。(下略)
(中岡慎太郎『時勢論』)
『窃(ひそか)に知己に示す論』から更に一歩進み、武力討幕と富国強兵を視野に入れた論述である。『窃(ひそか)に知己に示す論』では、大政奉還による平和的な政体変革を許容していたが、この時期になるとそれが絵空事に過ぎないと認識した中岡は、かつてどんな国であろうと周旋や話し合いだけで政体変革をなし得た国など無いと断言し、近い将来必ず来るであろう幕府との決戦に備える必要があると説いた。
7月、浪士を中心とした「陸援隊」という武装組織を土佐藩許可の下創設し、隊長に就任している。
さかのぼること3ヶ月ほど前、中岡は洛北で隠棲中の岩倉具視を訪れている。
当初公武合体派の奸物と見做していた中岡は岩倉と会う気が無かったが、岩倉の器量を認める同志の説得を受けて、会ってみる事にしたのであった。
太宰府から出かける直前、岩倉に会うことを伝えると三条実美は「彼の大姦なんぞ事を共にせんや」と嫌悪感を示したが、五卿の1人である東久世通禧が「彼は決して幕府に身を致すものに非ず。和宮降嫁を賛せるものは、一時の権謀のみ」とたしなめると、岩倉宛の手紙を書き、これを中岡に託した。
4月21日、岩倉の屋敷に赴き、初めて面会を果たすと、それまでの印象と全く異なる大人物であると認識を改め、以後頻繁に岩倉と面会して王政復古討幕の謀議を交わしている。
この中岡と岩倉とのやり取りの中で、文久以来の政敵であった三条と岩倉の和解が成立するが、2人が顔合わせするのは中岡の死後1ヵ月半ほど後の事となる。
10月13日、坂本龍馬と後藤象二郎の周旋により、徳川慶喜が大政奉還を宣言し、幕府による統治体制は消滅した。
この時中岡は坂本に対し、「この後来るべき幕府との決戦の準備は既に出来ている」と告げたと言う。
『坂本之を諭して曰く、
「今我より彼に挑まずとも、彼必ず自ら激して事を発するに至るは、勢の最も賭易(みやす)き所ならずや。後藤如何に平和的に復古せむとするも、到底兵を用いざるを得ず。今暫し機会の来るを待て」
と。中岡やや首肯し、且つ揶揄して曰く、
「龍馬君は流石才子なり」
と。坂本敢えて争はずして、唯苦笑せり』
(『船越洋之助談話筆記』)
慶応3年11月15日夜8時過ぎ、京都四条川原通りにあった、醤油商近江屋の2階にて、中岡と坂本の両名が会談していた所に、数名の刺客が侵入し、2人に致命傷を負わせて退却した。
坂本は襲撃直後に死亡したが、中岡はなお2日間生き延び、救助に来た谷守部(干城)や田中顕助(光顕)らに襲撃時の状況を証言している。
中岡によると、刺客は最初「十津川の者でござる。どうぞお目にかかりたい」と言い、2階に上がってくると、やにわに2人の男が襲い掛かり、1人が「こなくそ!」と中岡に向かって斬りつけてきた。
中岡は短刀で受けたが、刀が近くに無かった為不覚を取り、全身に11箇所の傷を負い、特に後頭部の傷が脳に及んでいた。
2人が倒れて動かなくなった後、刺客は「もうよい、もうよい」と言い、そのまま外に出ていった。
少しして坂本が起き上がり、「石川、刀は無いか」「脳をやられたからもう駄目だ」と言ってそのまま事切れた。
田中らが救助に来た後、瀕死の重傷を負いながら焼き飯を食べるなどなお気力が残っていたが、17日に容態が悪化し、死去。数え年30歳、満29歳7ヶ月だった。
なお、この事件の犯人については未だに諸説入り乱れているが、最も有力な説として、犯行に及んだのは京都見廻組与頭の佐々木只三郎の他、隊士の今井信郎ら計7人であるとされている。
「我が為に岩倉卿に告げて欲しい。王政復古のこと、一にかかって卿の御力に依るのみである」
「速やかに討幕の挙を決行されよ。後れを取れば、却って敵のために逆襲せられるであろう。必ず同志の奮起を望む」
中岡、坂本の訃報を聞いた岩倉と三条は嘆き、岩倉は「ああ、何者の鬼怪が麿の一臂を奪うてしもうたか」と涙し、三条は神式祭祀と和歌をもって慰霊追悼したという。
事件から24日後の12月9日、岩倉は朝廷に参内し中岡が望んだ王政復古を実行に移す。27日、三条が上洛し、29日には中岡の周旋により文久以来の対立を乗り越えた2人が初めて顔を合わせた。
掲示板
17 ななしのよっしん
2018/12/23(日) 20:29:39 ID: JpM40J6ukC
無血倒幕した(ことになってる)龍馬に対して、武力倒幕を主張したのが悪印象にされている感
その後の戊辰戦争→維新を見れば中岡の見立ての方が正しかったことは明白なんだが
「愚なる者は愚を尽くし」とか当時の感覚ではなかなか書けないし
日本で初めてスマイルを撮られ、数千キロを駆け回り、日露戦争までを見通していた男
間違いなく大河レベルのドラマになるはずが、埋もれているというのがなんとも
18 ななしのよっしん
2020/06/28(日) 05:14:25 ID: 6MkBzOB5F3
19 ななしのよっしん
2023/08/30(水) 10:28:17 ID: ds6MuOUWQ0
この人と薩摩の小松帯刀、長州の広沢真臣は長生きしてほしかったな。
急上昇ワード改
最終更新:2024/10/06(日) 17:00
最終更新:2024/10/06(日) 17:00
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