松平容保(1835~1893)とは、幕末に活躍した大名である。
保科正之の衣鉢を継ぐ陸奥会津藩主。創作物では新撰組絡みでよく出てくる人。
美濃高須藩主・松平義建の子として生まれるも、弘化3年(1846年)には会津藩主・松平容敬の養子となって、嘉永5年(1852年)に跡を継いだ。
そして彼を一躍有名たらしめているのが、文久2年(1862年)の京都守護職就任である。京都所司代とは異なり、将軍直隷のこの役職は公武合体を目指し、禁裏守衛総督・一橋慶喜(後の徳川慶喜)、京都所司代・松平定敬とともに「一会桑」と称された。
将軍や幕閣が長期間京都・大坂に滞在して朝幕関係の融和に努める将軍直衛策を一貫して主張し、一橋慶喜とともに朝幕間の合意形成に尽力した。そして慶応2年(1866年)の長州再征失敗後の二条斉敬、朝彦親王(尹宮)といった朝廷内協力者の立場が弱まった結果、徳川慶喜が京都で政治問題などに自ら対処する。これで、将軍直衛策が実現したと解釈し、辞表を提出。
しかしその後も帰国する機会をつかめず、鳥羽伏見の戦いの敗戦後は会津若松で奥羽越列藩同盟(なお、松平容保の救援が目的なので、会津藩は当然奥羽越列藩同盟ではない)の協力を得たものの、明治元年(1868年)に降伏開城した。
その後東京に護送されると、斗南藩主として謹慎。明治5年(1872年)に赦免され、日光東照宮宮司となって余生を過ごした。
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7 ななしのよっしん
2023/02/02(木) 10:56:19 ID: 5OciCol5lT
皇統そのものを敬愛していたか、自分たちとの繋がりのみを重視していたかの違いかね。
幕末の明治天皇は幼帝と言っても当時の元服である十五歳は迎えてるし(たまに幼帝という言葉から右も左も分からない幼児だったと勘違いしたり、そうさせようとミスリードする奴がいるけど)、
現代基準でも物事を十分に判断できるとされる年齢なんだから、「幼帝名義だから、これは何も分からない幼帝が騙されてるな」とするなら馬鹿にしすぎてるか、自分たちに都合の悪いことは認めないかのどちらかでしょ(逆に都合のいい勅なら幼帝名義だろうとOKだろうし)。
後に山内容堂が、岩倉具視との論戦で発した幼帝発言を失言として謝罪したのも、
天皇そのものを馬鹿にしたからというよりは、何も分かってないという扱いをされた明治天皇が「いや、お前らの考えてることぐらい分かってるから。人を馬鹿にしてんのか?」と怒るかもしれないと察したからだろうし。
8 ななしのよっしん
2023/10/13(金) 22:21:29 ID: 8mx64Qdo+m
会津藩は徳川宗家の守護者であって藩主がダメなら遠慮なく捨てろぐらいのところだから、佐幕と言っても幕臣や幕府といったシステムまで守る気は必ずしもないだろう。しかも何でも誠実に当たれって人だから、それ本当に宗家を思って言ってるか?と感じたら幕臣でも批判するし、敵であっても筋が通ってれば話を聞く。慶喜とは真逆の意味で臨機応変なところがある人だと思う。
9 ななしのよっしん
2023/11/05(日) 13:29:44 ID: nSnE/oSGkU
多分、そこまで殊勝な人物ではないよ。
宗家を思ってるのなら、宗家を相続した徳川慶喜に従うべきだけど、何かと自分の意見に拘って慶喜と衝突してるし、その手段として『会津藩が慶喜の権力基盤の一つ』という立場を存分に利用してる上、それでも要望が通らない場合は辞表を出して慶喜を困らせまくってる。
山川健次郎も、朝廷に影響力を持つことで独自の権力を握ろうとしていたと指摘してるので、宗家に尽くす事だけを考えていたわけでもないだろう。ただし、権力を握るのは別にいいとして、それの使い方が下手すぎたとも指摘している。
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最終更新:2024/05/17(金) 22:00
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