橋本左内(1834~1859)とは、幕末に活躍した人物である。
越前松平家当主・松平慶永の側近。安政の大獄で刑死させられた、一橋派の代表的な人物。諱は綱紀。変名として桃井伊織、亮太郎。号は黎園、景岳、容安など。
福井藩奥外科医・橋本長綱と大行寺住職の娘・梅尾の間に長男として生まれる。嘉永元年(1848年)に士道の頽廃を憂う『啓発録』を著して、嘉永2年(1849年)に大坂の緒方洪庵塾・適々斎塾に入門して蘭学を学んだ。
嘉永5年(1852年)に家督を継ぎ、安政元年(1854年)に江戸に遊学。安政2年(1855年)には藩医を免ぜられて書院番に抜擢された。このころから水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷隆盛らと交友を重ねたとされる。
安政3年(1856年)には藩校明道館の中心人物となり、政治と学問の一体を目指す学制改革、儒学精神に裏打ちされた洋学の導入などに携わっていった。そして安政4年(1857年)に、家業は末弟が継承して、松平慶永の侍読兼内用掛に任じられ、一躍国事に専念することとなった。
こうして松平慶永の主導する一橋慶喜(後の徳川慶喜)の擁立に従事し、建白書案文の作成などに関わっていく。対外的には日露同盟論を主張し、積極的に海外に進出し富国強兵を実現することを説いた。このために、将軍・慶喜を頂点として松平慶永、徳川斉昭、島津斉彬といった有力大名を結集した幕藩連合的統一国家の樹立が不可欠だとしたのである。
かくして、安政5年(1858年)に入京し、将軍継嗣決定の内勅降下と日米修好通商条約勅許の朝廷工作に携わったが、大老・井伊直弼が徳川家定の後継者を紀伊徳川家の徳川慶福(後の徳川家茂)に決定したことで挫折。松平慶永が安政の大獄によって隠居謹慎させられたこともあり、政治活動を断念する。しかし、幕府から軽輩の身で将軍継嗣問題への関与したことを問題視され、8回にわたる審問の末、安政6年(1859年)に斬首された。
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最終更新:2025/12/05(金) 22:00
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