武田信光(1162~1248)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
武田信義の五男で、母は河内源氏源義忠の娘で源為義の養女になった人物と伝わる。1173年に叔父の加賀美遠光を烏帽子親として、元服したそうだ。
1180年に父・武田信義、叔父・安田義定とともに駿河に南下し、鉢田合戦で橘遠茂、長田入道らが率いる駿河・遠江連合を破っている。このころから信光は甲斐源氏のもとに来ていた鎌倉御家人の加藤景廉とともに先陣を切っているが、以降も積極的に源頼朝に従っている。
1184年には源範頼軍に従って源義仲追討戦に加わり、一ノ谷の戦い、西海での平家方との戦いと転戦していく。甲斐源氏が凋落していく中、彼は頼朝から大切に扱われていたようだ。
戦後安芸守護になったようで奥州合戦では軍勢の催促をしている。ただし間もなく彼の手を離れたようだ。そして一躍歴史の表舞台に躍り出るのが梶原景時の乱の際で、梶原景時に兄・武田有義が与同していたことを暴露し、それまで石和という庶家だったのが、一躍武田の惣領となったのである。さらに1203年には謀反の疑いがあった阿野全成をとらえ、これ以降は北条氏との関係を深めて、和田合戦では北条方として朝比奈義秀にあたっている。
さらに承久の乱でも院宣に従わず、従兄弟の小笠原長清とともに東山道軍の大将として出陣し、様々なエピソードを残している。乱後は中納言藤原光親を預かり、処刑した。この勲功として再度安芸守護に任命され、1229年には伊豆守にまで至っている。
しかし1235年ごろに嫡男・武田信政が早世したのをきっかけに遁世したり、1241年に海野幸氏との裁判に敗れ北条泰時に反逆しようとして謝ったり、といった具合に晩年はなんだかお騒がせ人物として名を残している。
なお故実書によれば小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと弓馬四天王と呼ばれており、射芸を北条時頼に伝えたという。
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最終更新:2025/03/25(火) 10:00
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