石橋 雅史(いしばし まさし、1933年1月4日 - )は、アイアンクロー日本の俳優・空手家。段位は剛柔流八段・極真空手七段である。
台湾花蓮港庁花蓮港街生まれで福岡県飯塚市出身。伝習館高等学校、日本大学藝術学部演劇学科卒業。
文化座演劇研究所、文学座付属演劇研究所で役者修行を積み、商業演劇で活躍する傍ら、テレビドラマの仕事もこなすようになり、1970年に『野獣都市』(東宝)で映画初出演以降は映像の仕事がメインとなるが、1973年の千葉真一主演映画『ボディーガード牙 必殺三角飛び』に出演し、千葉と戦う敵を演じたことが転機となる。
翌年の映画『激突! 殺人拳』では千葉真一の推薦により敵役に抜擢され、同作では監督・小沢茂弘や千葉らの要望で、格闘シーンに全て立ち会うなど、スタッフとしても貢献した。これ以降、修行していた空手道の腕前を見込まれて、1970年代は東映の格闘映画やアクションドラマでも活躍した。千葉は大山道場(極真会館)での後輩にあたり、「石橋さんに蹴られると痺れるんですよ。石橋さんは強かったし、うまかったねぇ。でも、石橋さんとやると安心してアクションシーンができた」と千葉は語っている。
特撮スーパー戦隊シリーズで『ジャッカー電撃隊』、『バトルフィーバーJ』、『科学戦隊ダイナマン』、『高速戦隊ターボレンジャー』、『電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー』と5度に渡り、悪役を演じた。テレビ時代劇『水戸黄門』にはゲスト出演者第4位の46回出演している。
自身のブログでは空手の修行を積みながら、後輩の育成にも取り組んでいることが書かれており、しばしば自作の俳句を掲載している。
父親は職業軍人で柔道とか剣道は幼少から習っていた。伝習館高等学校在学中には柔道を修行し、日本大学芸術学部演劇科へ進学後、浅草にある剛柔流の道場に通うようになった。やがて大学の剛柔流空手道部主将となり、卒業後は同部の師範を務めていた。
剛柔流の先輩でもある大山倍達から頼まれ、大山道場と初期の極真会館で師範代を役者修行の合間に引き受けることとなる。本来なら剛柔流を脱退し、独立した大山のところへ行く事は許されないのだが、大山から何度も頼まれたため、家へ帰る途中に道場があった事から「寄り道をした」ということにして指導し始めた。
石橋に教わった門下生には、後年極真会館の牽引車たる役割を担った者も多い。彼らは石橋の空手技術や人柄をそれぞれ以下のように語っている。
“ | 石橋先生は組手をしている最中でも、弓受けの構えを使っていた。使いこなすには難しい構えだけど、これをやられたら入れない。 | ” |
石橋は白帯の頃の山崎照朝を、才能があると見込んで手取り足取り特別に教えていた。極真会館が初めて開催した第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会で優勝した山崎は、第一報と喜びの報告を石橋へ伝えており、ワイン会社の顧問をしている山崎がワインを石橋に贈るなど、師弟関係は続いている。
“ | 長身でとても柔軟な身体を持ち、痩身でどちらかというと空手家タイプでなかったが、ベンチプレスで70~80kgをいとも簡単に持ち上げていた。組手になると相手が正拳で突いてきたら受けると同時に、もう片方の手の裏拳で攻撃してきたり、前に攻撃していくと横に飛び、後ろに引くと同時に攻撃してくるという具合で動きが全然見えない。前蹴りもそのまま関節を返して上段回し蹴りに持ってくる。まるで石橋先生の操り人形になったようで何回となく、その手と足で顔をなでられた。それでも組手が終わると、必ずあそこが悪い、こうしたらよかったとアドバイスしてくれた。 | ” |
“ | 入門した時に3人の大先輩がいた。石橋さんは先輩の中で一番優しかった。 | ” |
その他の門下生では藤巻潤・岡田博文・渡辺一久・春山一郎・大山泰彦、ジョン・ブルミン、千葉真一・郷田勇三・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸・添野義二らがいる。
石橋は「武術は受けてすぐ攻撃しなければダメ。受けと攻撃で一つの動作なのです」
と自身の武術観を述べ、その組手スタイルは変幻自在で「円を描く流麗な組手」と称された。
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最終更新:2024/05/12(日) 02:00
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