端的に言えば紫式部の夫。ただ、紫式部があまりにも有名すぎる故に逆転の現象が起きているのだが、藤原宣孝にとって紫式部は何人もいる妻の一人でしかない。
紫式部とは近い系統の勧修寺流藤原氏の受領層であり、おそらく二回りくらい差がある結構な年の差婚。ただ、それもあってか結婚後すぐ亡くなり、あまり書けることがない。
なお、彼の日記『藤原宣孝記』というものが存在したらしいが、『西宮記』、『祈雨日記』 といった別の史料に記載されたことで残った6日分しか伝わっておらず、特に何か書けるわけではない。
宇多天皇・醍醐天皇の外戚であった藤原定方のひ孫。この藤原定方とは、妹・藤原胤子が宇多天皇に嫁ぎ、醍醐天皇を生んだ結果、一躍時の人となり、娘である藤原桑子も醍醐天皇に嫁がせ、北家藤原氏の嫡流争いにある程度加われた存在である。この藤原定方に接近した、紫式部の先祖の堤中納言こと藤原兼輔はいとこであり、かつてそこまで高位に登れなかった藤原高藤の子孫が復活を果たすはずだった。
ところが、醍醐天皇の跡を継いだのは彼らとは無関係な朱雀天皇であり、おまけに藤原定方・藤原兼輔両名もほぼ同時に死ぬ。結果、この両家は公卿層から後退した。
ただ、かろうじて受領くらいになれる藤原兼輔の子孫と異なり、藤原定方の子孫は権中納言などくらいには上がれ、参議クラスの貴族から妻も得られているので、両者もある程度格差があった。
で、その後藤原朝頼→藤原為輔と続き、この藤原宣孝は、権中納言・藤原為輔と、参議・藤原守義の娘との間に生まれた。なお、結婚相手である紫式部の父親である、藤原為時の母親は藤原定方の娘なので、藤原為時と藤原為輔はいとこ、藤原宣孝と紫式部ははとこにあたる。
生まれた時期はよくわからず、天暦3年(949年)くらいとは言われている。上記の通り紫式部のはとこではあるのだが、世代的には藤原為時の同僚にあたり、花山天皇の時代に蔵人で一緒に働いていた。この蔵人の任は天元5年(982年)頃からあるので、花山天皇の時代にようやく芽が出てきた藤原為時よりは前からポストにいる先輩である。
貴族の中では目立ちたがりの尖った性格だったようで、清少納言の『枕草子』には、身分が高かろうと質素な格好で行う御嶽詣を「そんなつまらないことしたくない、本尊だってそんなこと言わない」と、とてもカラフルな格好で行ったエピソードが記された。
なお、これは「あはれなるもの」の節にあるエピソードだが、原文を読む限り「「あはれなるもの」ではないけどなんかついでに書いておこ」くらいの温度感で、貴族の中では割合有名なエピソードがジャブ的に残ったと思われる。
この後、正暦元年(990年)に筑前守になった。それまでの藤原知章が身内があまりにも死にすぎて辞退したためであり、『小右記』では藤原実資がなんであんなキャリアも碌につんで無い奴と批判している。なお、清少納言は『枕草子』で「確かに藤原宣孝の言う通り、あの御嶽詣はご利益あったに違いなかったんだなあ」としており、普通の人々にとっては割とやんややんやとほめたたえられていたのだろう。
ちなみに、既にこの頃藤原宣孝は、受領層である藤原顕猷の娘との間に長男の藤原隆光を設けているどころか、藤原隆光はもう元服して久しいいい歳である。というか、おそらく藤原隆光は、紫式部よりも年上である。なので、藤原宣孝は、この筑前守になった時点で、前述の仮定の生年はおいておいても、そろそろおじさんといってもいいくらいの歳と思われる。
さらにその後、受領層である平季明の娘と藤原頼宣を、母の不明な藤原儀明を、中納言・藤原朝成の娘と藤原隆佐と明懐を生んでいる。この中で一番身分の高い藤原朝成は藤原定方の息子で、要するに藤原宣孝の大叔父である。家格的には同程度なので、おそらく正妻はこの藤原朝成の娘だったと思われる。
この後、長徳4年(998年)には山城守になっている。
その彼が、いつ頃からか紫式部に求婚した。ここで、遅くとも二人は長徳4年(998年)に結婚していたのは確実である。つまり、藤原宣孝が山城守になった頃である。しかし、ここの下りが結構仮定に仮定を重ねているので、実はいつから結婚していたのかは定かではない。
第一に、紫式部が父親・藤原為時が越前守の頃に一人帰京し、藤原宣孝と結婚したというものである。しかし、紫式部が父を一人残して帰京したのかどうかは特に根拠がなく、さらに父親がいないにもかかわらず「儀式婚」をするのもやや不自然である。
第二に、年の差婚であることもあり、紫式部がこの結婚を望んでいたかどうかもかなり推測交じりになることである。当時としてはこの程度の年の差婚はよくあり、紫式部がいやいや結婚したというのも特に根拠はない。が、マジで当時のジェンダー観や心性研究も絡むので、逆にどうとでも言えてしまうのである。
第三に、紫式部の歌集には誰と明記されていないものが多いものの、言い寄ってくる男が出てくる歌がある程度ある。つまり、これが全員藤原宣孝なのか、他にも男がいたのか、解釈でどうとでも読めてしまうのである。ここで問題になるのが、写本によって歌の順番が齟齬が出るので、どの写本がよりオリジナルに近いかと、史学者と文学者が別の研究フィールドにいるということである。
ただ、紫式部は、これらの歌で相手の男に弱腰だったのも事実である。具体的に藤原宣孝からの歌として残っているものに対しても、紫式部は「いやお前普通にちゃんとした家の妻おるから、遊びちゃうんか」くらいの温度感である。
要するに、上記3つの理由で、紫式部が藤原宣孝と仕方なく「儀式婚」したのか、それ以前から「事実婚」状態にあったのかは、重要なポイントである。のだが、話がややこしくなるので、そういう問題があるということで筆をおきたい。
ただ、確実なのは、藤原宣孝はしっかり官職のある家の存在であり、舞などの能力もあったので、弱腰になりはするものの、まあ結婚してもいいか…くらいのポジションではあったらしい。ぶっちゃけ藤原宣孝と紫式部は些細な痴話げんかも行っているものの、それくらいで夫婦関係が途絶えるほどではないくらいには、夫婦仲はちゃんとあったようだ。
藤原宣孝と紫式部の両者の間には娘・藤原賢子、つまりかの有名な大弐三位が生まれた。
ところが、長保3年(1001年)に藤原宣孝はあっけなく死んでしまった。ただし、勧修寺流藤原氏としては、非参議三位にまで登り長生きした、五男の藤原隆佐の系統が残っていった。
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最終更新:2024/05/28(火) 01:00
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