那須信吾 単語


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ナスシンゴ

那須信吾とは幕末の志士、土佐浪士。

概要

文政12年(1829年)、土佐高岡佐川にて土佐家老深尾氏家臣・浜田章の次男に生まれる。諱は重民。変名石原幾之進。明治時代政治家田中顕は那須・金次の息子で、那須の甥に当たる。

6歳でを亡くし、の金次に養育される。はじめ医師を志していたが武芸に励み、坂本龍馬の通った日根野場に通う。その後、檮原剣術場を開いていた郷士・那須俊平の養子になり、那須姓を名乗る。那須身長6尺(180センチ)の偉丈夫で、から100キロ離れた高知下へ1日で走り抜ける怪力の持ちだったと言われる。その後武市半平太剣術場に通い、武市の尊王思想に深いを受ける。

文久元年(1861年)、土佐勤王党が結成されるとこれに加わったとされるが、名簿には記載がない。

文久2年(1862年)3月26日坂本龍馬沢村惣之丞が脱する際には自宅に宿泊させ、まで案内している。

4月8日武市の進言を聞き入れない参政吉田東洋同志安岡嘉助、大石団蔵と共に暗殺。直後に脱している。勤王党の名簿に名前いのはこの暗殺に加わったためとされる。長州に赴いた那須は、京阪に向かって吉村太郎と合流。

文久3年(1863年)8月13日大和行幸計画に呼応した吉村天誅組を結成して決起するとこれに幹部として参加。17日には大和五條代官所を襲撃し、代官等を討ち取った。だが直後に起きた八月十八日の政変により政局が一転し、朝廷から逆賊と見做された天誅組は窮地に立たされる。幕府の追討軍と交戦するが、戦力差は如何ともし難く天誅組は討滅され、那須9月24日吉野口にて戦死した。享年35。贈従四位。

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