酒井玄蕃(1842~1876)とは、幕末に活躍した人物である。
庄内藩士で、第3代藩主酒井忠勝(大老酒井忠勝とは別人)の弟・酒井了次の子孫(つまり系図上は、酒井忠次の子孫で、当時の藩主酒井忠篤のかなり遠い親戚)。諱は了恒。通称「鬼玄蕃」。
後に庄内藩家老となる酒井了明と市の間に長男として生まれる。弟が二人、妹が四人いたそうだ。藩校である致道館で学び、重正流馬術や新久流兵学の免許を会得していった。
文久3年(1863年)に江戸詰となって番頭として市中取締の任に就いた。元治元年(1864年)には深川で負傷しながら岩名昌之進を討ち取り、功績をたたえられる。藩に戻ると近習頭に任ぜられた。
ところが慶応3年(1867年)に藩主・酒井忠篤隠居を計った内訌事件が起きる。この結果、祖父・酒井右京は切腹、父・酒井了明も致仕することとなり、酒井玄蕃が家督を継ぐことになったのだ。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が起きると、組持番頭として出戦。清川に入った新政府軍を撃破して、天童攻略に侵攻した。やがて藩中老に任ぜられ、秋田侵攻作戦では二番大隊の隊長となる。北斗七星をかたどった破軍星旗を掲げて進発し、新庄・横手を攻略。この戦いでの奮戦ぶりが賞賛されるが、隊規の整備など決して猪武者ではなかったようだ。
しかし、戦いを終え藩に戻った直後に、庄内藩は降伏。以後は兵部省に出仕して、清への渡航も行っているも、肺疾で若くして亡くなることとなった。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/12(金) 22:00
最終更新:2025/12/12(金) 22:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。