財政再建とは、家庭や企業や地方公共団体や政府において、支出過多となっている財政状況を変化させ、支出と収入を均衡化させることをいう。
本項では、日本国政府の財政再建について述べる。
日本国政府の予算は、歳出の額が税収を大きく上回る状況が続いている。税収を超える分は国債を発行しており、その国債発行額の合計が2018年には874兆円に到達した。
このため「財政再建をするべきだ」という声が、平成の30年間で強まることになった。税収と政策経費を比べたものをプライマリーバランスというのだが、「プライマリーバランスを黒字化すべきだ」と言い始め、そのために増税と歳出削減に励むようになった。
財政再建のために増税と歳出削減をして緊縮財政にもっていくのだが、増税したり歳出削減したりするとデフレの圧力が強まり、不景気になる。
このため、「財政再建はデフレとなり景気を悪くするので、反対だ」という声も発生する。また「自国通貨建ての国債は、いくらでも通貨発行権を行使して返済できるので、借金と呼ぶのは不適切だ。国債は悪ではない。財政再建は不要である」という意見も頻発する。
財政再建論者と財政再建不要論者の論争は、令和時代になってもなお続いている。
両者の特徴はまさに対照的なので、表にしてまとめておく。
| 財政再建論者 | 財政再建不要論者 |
| 国債は悪 | 自国通貨建て国債は、悪ではない |
| プライマリーバランスを黒字化しよう | プライマリーバランスなど意味の無い数値だ |
| 増税を志向 | 減税を志向 |
| 歳出削減を志向、緊縮財政を目指す | 歳出増加を志向、財政出動して積極財政を目指す |
財政再建を唱える論者にはいくつかの傾向があるので、本項目で指摘していきたい。
「政府は、まず税金を集めて、それを元に国家予算を作っている」という思想の持ち主は、財政再建の考えになりやすい。「税金よりも多くの支出をすると、当然ながら破綻する」という思想の持ち主なら、税収を超えない支出にまで切り詰めてプライマリーバランスを黒字化することに大賛成する傾向になる。
一方で、「政府と中央銀行というのは通貨発行権を持っている。政府と中央銀行は、まず必要なだけお金を発行して、それを民間に支払いつつ民間から財やサービスを得ている。民間に出回る金が増えすぎるとインフレになるので、インフレを抑えるため税金を掛けている」という考え方がある。これを機能的財政論というのだが、先述の考え方とは対極に位置する。
後者の考え方に従うと、国家予算における税収など単なるオマケでしかない、となるので、財政再建不要論へ考えが傾いていくのである。
ちなみに、安倍晋三内閣総理大臣は、2019年7月参院選の応援演説で、「アベノミクスで税収が上がった」と誇らしげに演説していた。ゆえに、前者の考えの支持者であることが窺える。
財政再建論者の論説を読むと、「国債というのは借金である」ということが大前提として書かれていることが多い。「国債は借金であり、将来の子孫に対して重いツケを回す(負債を残す)ことになる。国債は、将来の子孫が納税して返済するしかない。国債を発行したら、子孫に対して顔向けできない」などという表現を新聞などで読むことができる。
一方で、「自国通貨建て国債を借金と呼ぶのは不適切である。政府と中央銀行は通貨発行権を持っており、この巨大な権力があるため、自国通貨建て国債を絶対に返済することができる。ゆえに、自国通貨建て国債というのは『通貨交換券』『通貨の材料』といった程度のものである」という主張がある。
前者の考えは、通貨発行権を全く意識しない考え方である。
後者の考えは、通貨発行権をはっきりと意識する考え方である。現代貨幣理論(MMT)や国定信用貨幣論の支持者が毎回挨拶代わりに主張しており、読んだことがある方も多いだろう。
2002年にアメリカ合衆国の民間格付け会社が「デフォルトの危険性あり」として日本国債の格付けを引き下げた。それに対し、日本の財務省の黒田東彦財務官(2020年現在、日銀総裁の座にある人物)が質問書を送っている。その中には「日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか」という文章が入っている(資料)。
財政再建論者は、増税をして税収を増やし、新規の国債発行額をゼロにして、プライマリーバランスを黒字化させることに常に大賛成する。プライマリーバランス黒字化方針をとにかく支持する傾向がある。
それに対して、積極財政支持者は「プライマリーバランスを黒字化すると、その直後に不況が起こる」と反論する。典型的な積極財政支持者であるランダル・レイ教授が、その事実を指摘している。そのことは、プライマリーバランスの記事で解説されている。
財政再建論者は、「プライマリーバランス黒字化目標を維持して、国債発行額を減らすという姿勢を見せないと、市場関係者によって国債を売り浴びせられ、国債の価格が急下落し、国債の金利が急上昇し、国債市場が大混乱に陥ってしまう」という思想を持つものがいる。
2020年4月13日の衆議院決算行政監視委員会において、麻生太郎副総理兼財務大臣は、「(プライマリーバランス黒字化目標)を放棄するという考えはありません。(中略) 日本が返す気がないとなれば、途端に日本の国債を売り浴びせられるというようなことにもなりかねませんので」と答弁している(議事録十二ページ)
その一方で、財政再建不要論者は「日本の国債は100%自国通貨建て国債で、どれだけ売り浴びせられようとも、日銀が無限の通貨発行権を行使してすべて買い支えることができる。自国通貨建て国債である日本国債は、日銀がすべて意のままに支配できるものであり、市場原理が通用しないものである。また、日本銀行は、日銀法第4条により政府の意向に従うことが義務づけられているので、政府が国債市場の混乱を抑えるべきと考えた場合、それに従う義務がある」と論ずる。
前者の考えは、中央銀行の存在を考慮しない考え方である。後者の考えは、中央銀行の存在をはっきりと認識する考え方である。
財政再建論者の思想的な柱というと、クラウディングアウトである。
クラウディングアウトを簡単にいうと、「国債を発行すると、民間企業向けの融資をするための資金が減少し、民間企業向けの融資の金利が上がり、民間企業向けの投資が減ってしまう。ゆえに国債発行した上の積極財政は、無駄で無効である」というものである。
クラウディングアウトを発展させたマンデルフレミングモデルという理論も、財政再建論者にとってお気に入りの思想である。マンデルフレミングモデルを簡単に言うと「国債を発行すると金利が上がり、通貨高になって輸出が鈍り、貿易収支が赤字になってしまう。ゆえに国債発行した上の積極財政は、無駄で無効である」というものである。
クラウディングアウトを徹底的に否定する論者もおり、「クラウディングアウトは迷信であり、妄言であり、完全に間違っている」と論ずる姿が見られる。
財政再建論者の口癖の1つは持続可能性(sustainability サステナビリティ)である。
国債というものは民間貯蓄を借りているものである。民間貯蓄には限りがあるので、国債発行で経済発展しようというのは全く持続可能性がない。持続可能性を維持するためにも、消費税を上げて国債発行を減らすべきである・・・というのが、財政再建論者の口上である。
財務省主計局の阪田渉次長は、2019年6月3日の参議院決算委員会において、「民間貯蓄によって国債が消化されてきた」という思想を披露している(議事録四ページ)。
「消費税 持続可能性」と検索すると、消費税は社会保障の持続可能性が高く、国債は社会保障の持続可能性が極めて低い、と論じ立てる文章が次々とヒットする。
一方で、積極財政の支持者は、国債消化の原資は、日銀による通貨発行権であり、日銀の買いオペによる資金供給である、と断言する。日銀が政府の国債市中消化を助ける買いオペをするから国債消化できるのであって、民間貯蓄とは何の関係もない。また、日銀の買いオペ可能額は無限大なので、国債の持続可能性は極めて高い・・・といった風に論じる。そして、「消費税は逆進性が極めて強く、低所得の若者の家計を直撃し、少子化を強く促進し、人口維持を困難にさせ、社会の持続可能性を大きく損なう」と論じるのである。
持続可能性(sustainability サステナビリティ)とは、極めてイメージの良い言葉であり、まさしく美辞麗句である。その美辞麗句を巡って、財政再建派と積極財政派は激しい争奪戦を展開している。双方が「自分たちの方が高い持続可能性を持っていて、あっちは持続可能性が極めて低い」と非難し合っている。
政府というのは民間企業と同じ存在で、貸借対照表(バランスシート)の純資産や損益計算書の利益を増やすことを目指すべき存在であり、債務額が資産額を上回る債務超過という状態を避けねばならない、と考える思想がある。
そうした思想に染まっていると、国債という債務が増加していく様を見て「これは大問題だ」と考えて、緊縮財政をして財政再建しよう、と主張するようになる。そして、国債に対する恐怖心も増幅し、国債恐怖症を併発するようになる。さらに、「『国民生活の向上のために国債を発行しよう』というのは、『甘い誘惑』というもので、そんな誘惑に乗せられず、債務の削減すなわち国債発行額の削減を目指すべきである」と論ずる。
一方、財政再建不要論者は、「政府というのは民間企業とは全く異なる団体で、貸借対照表(バランスシート)の純資産や損益計算書の利益を増やすことを目指さなくてよく、そんなことよりも国民の生活水準の向上を目指すべき存在である。国債を発行して政府支出を拡大し、国民生活の向上を図るべきだ」と考える。さらには憲法前文の「国政は国民に福利をもたらす」の部分や憲法第25条第2項を持ち出し、「政府が国民生活の向上をひたすら目指すことは、憲法前文や憲法第25条第2項で定められており、極めて正当的なことだ」と論ずる。
両者の考え方は、まさに正反対である。両者の対立は、経済学的な対立と言うより、憲法学的な対立になっている。詳しくは、国債恐怖症の記事を参照のこと。
財政再建を支持する論者は、とにかく、国債の発行量を問題視する。「日本のGDPに対して●倍の国債が積み上がっているのは問題だ。財政破綻が迫っている状態であり、財務大臣が財政危機を宣言するのが当然の状態だ」と述べ、とにかく量(quantity)を気にする傾向がある。
一方で、積極財政を支持する論者は、国債の質(quality)に着目する傾向がある。
まず、「負債というものは、支払期限までの期間の長さによって、厳しさが大きく変わり、質が大きく変わる。支払期日まで長い負債は経営に優しく、支払期日まで短い負債は経営に厳しいと扱う。これは会計学の基礎中の基礎だ。貸借対照表でも1年基準というものがあり、期日までの長さで負債を分類するのだ」と論じるところから始める。
続いて、「2020年現在の日本銀行券は不換銀行券であり、資産との交換期限が無期限延長されている負債で、日銀にとって負債性が極度に薄い負債であり、日銀の経営を全く苦しめない。日銀の通貨発行権は、不換銀行券を発行する権限なので、日銀の通貨発行権は無限大といえる」と論じていく。
そして、「自国通貨建て国債は、日銀の無限大の通貨発行権を使って返済できるので極めて安全であり、他国通貨建て国債は返済するにあたって通貨発行権を行使できず極めて危険である」と論じ、自国通貨建て国債と他国通貨建て国債を明確に区別しようとする。
そうした上で、「2020年現在の日本は、全ての国債が自国通貨建て国債である。また、経常収支も黒字が続いて外貨を十分に獲得できており他国通貨建て国債を発行する必要性が全くないので、財政破綻の原因となる他国通貨建て国債とは全く縁の無い状態である。ゆえに、2020年現在の日本は、財務大臣が財政健全宣言を行うに値する状態である」と論じていく。
量(quantity)を重視するのか、質(quality)を重視するのか・・・そういう点でも、財政再建論者と積極財政論者は大きく分かれる。
財政再建論者の中には、「国債を大量発行して財政支出を増やすと、インフレになり、インフレを止められず、通貨価値が暴落し、ハイパーインフレになる」という論を述べることがある。要するに、インフレ嫌いということである。これをインフレ恐怖症と呼ぶことがある。
その一方で、財政再建不要論者は「国債を大量発行して財政支出を増やすと、インフレへの圧力になるが、インフレを止められないことなどない。インフレを退治する方法などいくらでもある。また、緩やかなインフレは経済成長にとって絶対必要である」と論ずることが多い。つまり、インフレ容認論である。
2019年7月16日にステファニー・ケルトン教授が来日し、日本政府に対して消費税増税の中止と国債の発行増加と財政支出の拡大を提言した。それに対して麻生太郎財務大臣は「ハイパーインフレを起こす危険性がある」と発言したと、テレビ朝日が報じている(ニュース動画)。
緊縮財政派は、中央銀行の独立性を重視する。
「中央銀行が政府の意向を全く汲み取らない状態が、本来あるべき姿だ。政府が中央銀行に影響を及ぼすことを認めると、ハイパーインフレに突き進む」などと論じ、「中央銀行の独立性の維持は極めて重要だ」と論じる。
中央銀行は政府の意向を汲み取るべきである、と主張する論理に対しては「暴論」という言葉を投げかけて一蹴する傾向がある。
NHKの大ベテラン記者である野口修司は、「自国通貨建て国債は中央銀行が買い取ることができるので財政破綻しない」という指摘に対して「天下の暴論」と表現していた。また、「中央銀行の独立性は、そんなに重要ではない」というアメリカの経済学者の指摘に対して「かなり過激」と表現していた(記事)。
一方で積極財政派は、中央銀行の独立性を否定し、中央銀行は政府の意向のままに動く存在であると論ずる。日銀法第4条を引用し、「日銀は常に政府の意向をうかがうように法律で定められており、政府に従属する存在であることは明白である」と論ずる。
そして「中央銀行が政府の意向に従わない独立した存在であるという論理は、日銀法第4条を頭から無視している。現実に機能している法律を完全無視して、現実から離れた虚妄の論理を構築しているのであり、これこそまさに暴論である」と述べていく。
緊縮財政派と積極財政派は、政府と中央銀行の関係性という議題においても、お互いに「あちらは暴論」と激しく非難し合っている。
政府の財政を支える安定的な財源というと、消費税と、自国通貨建て国債である。
この2つとも、安定的であることに定評がある。消費税はどれだけ不景気になろうが一定の税収をもたらすし、自国通貨建て国債は日銀法第4条に基づいた日銀の献身的な支援がいつでも得られるので必ず市場に売却できる。
消費税と自国通貨建て国債は、安定財源界の東西横綱といえる。
消費税と自国通貨建て国債は、安定財源である点で同じものだが、経済に与える影響という点で真逆の性質を持っている。消費税は国家経済の民間部門から金を吸い上げるので、デフレ圧力が強い。一方、自国通貨建て国債は、国家経済の民間部門の黒字を増やすので、インフレ圧力が高い。
また、消費税と自国通貨建て国債は、安定財源である点で同じものだが、抱える支持者は正反対である。緊縮財政の支持者は消費税を非常に好み、積極財政の支持者は自国通貨建て国債を強く推す。
2つを比較すると、次のようになる。
| 消費税 | 自国通貨建て国債 | |
| 財源としての安定性 | ○ | ○ |
| デフレ圧力 | ○ | × |
| インフレ圧力 | × | ○ |
| 支持者 | 緊縮財政支持者 | 積極財政支持者 |
財務省のなかで支配的な権力を持っているのは、主計局である。
財務省主計局というのは財政再建が大好きであり、財政再建を国是(国の大方針)ならぬ「局是(局の大方針)」としている。財政再建を旗印に掲げていると、財務省主計局としては権力も増えるし、とても仕事をしやすくなるのである。
財務省主計局は財務省のなかで支配的な存在なので、主計局の局是がそのまま財務省全体の「省是(省の大方針)」となる。
霞ヶ関の各省庁というのは、外から見るとどれも同じように見えるが、はっきりと2種類に分けることができる。財務省と、財務省以外の省庁である。
財務省主計局は、財務省以外の各省庁に対して、絶大な権力を持っている。財務省以外の各省庁が「予算を付けてください」とお願いしてくるのに対し、財務省主計局は凄まじい勢いで勉強して理論武装し、そのお願いに対して理屈でもって欠点を指摘して、お願いを撤回させるのである。
財務省主計局においては「他省庁のお願いを叩き潰して予算を減らすほど、出世できる」と言われるが、その噂もあながち間違っていない。
財務省主計局というのはお財布の紐を引き締める係の役所で、財務省以外の各省庁はお財布の紐を必死こいて緩めようとする係の役所である。まあ、お財布の紐をきっちり引き締める立場の人がいないと放漫財政になってしまうから、財務省主計局のやりかたも間違っていないと言える。
財務省主計局が他省庁のお願いを却下するときは、そのお願いに関して猛勉強を重ね(難しい国家試験を通ってきた人たちなのだから勉強は得意である)、「その計画では、人的資源や日時の無駄であります。お国のためになりません」と言うのがお決まりのパターンなのだが、そういう猛勉強をサボる方法がある。それが、財政再建である。
「財政再建のため、予算を付けられません。歳出削減が必要なのであります」と一言言うだけで、他省庁のお願いを却下することができる。お勉強をする労力を省くことができ、財務省主計局にとってまったくもって好ましい状況になる。
財政再建という魔法の一言で、他省庁の予算を削減することができ、財務省主計局の権力が一気に増大する。このため、財政再建は財務省主計局の局益となり、財務省の省益となる。
財務省出身者が財政再建を説き、財務省以外の省庁から出てきた人が財政再建不要論を説く、というのはよく見られる光景である。
民間企業の経営者たちは、財政再建を主張する傾向が強い。
経団連、日本商工会議所、経済同友会の3団体を経済三団体と言い、民間企業の社長・会長が多く集まっている。その経済三団体は常に財政再建を主張していて、しかも財務省の主張と全く同じ論調になっている。
これはなぜかというと、民間企業は財務省に頭が上がらないからである。民間企業が財務省を批判したり財務省の省益を損ねたりすると、税務調査で報復される。財務省とその傘下の国税庁・税務署を恐れるため、財務省の財政再建論に全面的な賛同をしている。
民間企業の経営者にとって税務調査ほど恐ろしいものはない。「税務署の調査で家に入られ、家中をひっくり返されてすべてをことごとく調べられた」という話はよく聞かれることである。
税務署を怒らせないため、東証一部上場の超一流企業の社長・会長が直々に税務署の署長へ挨拶にうかがう、という話もよく聞かれる。
このあたりの事情を証言した文章があるので、引用しておきたい。谷沢永一が、1997年11月出版のこの本で語っている。
数年前までは、中小企業の経営者の集まりで私が大蔵省の批判をしますと、皆さん目を伏せられたものでした。官僚のトラブルがマスコミで伝えられるようになって、このごろは安らかに聴いていますが、以前は本当に怯えていました。国税庁にも税務署に対しても怯えている。講演の主催者から予(あらかじ)め、官僚批判だけはやめてくれという申し入れがあることも珍しくなかった。どうも谷沢は公然と大蔵批判をやっているらしい、危ない男であるらしいと。そういうことを自分たちが聞いたという実績を残したくない。聞くだけでも怖い。谷沢と同類と思われると税金で報復される、と心配されていた。
※『拝啓 韓国、中国、ロシア、アメリカ合衆国殿―日本に「戦争責任」なし』256ページ
民間企業の社長というのは、従業員を養っていかねばならない立場であり、冒険をすることができない。財務省の言いなりになり、ひたすら安泰を願うというのは、無理もないことである。
大企業の経営者にもいろんな人がいるが、その一部に、「従業員の賃下げを狙う大企業経営者」がいる。そういう大企業経営者は、政府や地方自治体の緊縮財政を支持する傾向にある。
大企業というのは、就職市場において政府や地方自治体と競合しており、優秀な高学歴学生を奪い合っている。
政府や地方自治体が積極財政となり、公務員の給与を引き上げると、就職市場で競合する大企業も従業員の給与を引き上げざるを得ない。「従業員の給与を引き上げないと、政府や地方自治体に優秀な学生をすべて奪われてしまう」と焦るからである。そういう事態は、「従業員の賃下げを狙う大企業経営者」にとって、あまり望ましくない。
政府や地方自治体が緊縮財政を採用し、公務員の給与を目一杯引き下げると、就職市場で競合する大企業も従業員の給与を引き下げることができる。「従業員の給与を引き下げても、政府や地方自治体に優秀な学生を奪われずにすむ」と安心するからである。そういう事態は、「従業員の賃下げを狙う大企業経営者」にとって、とても望ましい。
グローバリズム(市場原理主義)を支持する者は、財政再建を支持することが多い。
グローバリズムとは、国家の規制を緩和して、ヒト・モノ・カネの移動を自由化することにより競争原理を導入し、ビジネスチャンスを広げる思想のことをいう。自由貿易を極大化させるために「小さな政府」を理想視しており、政府支出の削減を望み、緊縮財政をこよなく愛する。
市場原理主義者の典型例というと竹中平蔵である。竹中平蔵は小泉政権に入閣して、プライマリーバランスの黒字化を主張した。その結果として2001年骨太の方針に「プライマリーバランスの黒字化」が入ることになった。講演でも、「プライマリーバランスを黒字化しなければならない、そのため緊縮財政が必要だ」とひたすら訴えるのである。
竹中平蔵に限らず、海外においても、グローバリズム(市場原理主義)の支持者が、緊縮財政を唱えて「小さな政府」を志向する例が本当に多く見られる。
自由貿易の極大化は、政府の権力を弱体化させて規制緩和しないと実現しない。そのためには、緊縮財政にして政府の各省庁へ与える予算を削減すればいい。極端な話、予算を目一杯減らせば規制業務を担当する部署の人数が減って、規制したくても規制できなくなり、規制緩和が進むのである。
自由貿易と規制緩和と緊縮財政、この3つは常に揃っている。そのことを三橋貴明は「グローバリズムのトリニティ(三位一体)」と名付けている。
トリニティとか三位一体などという表現は、ちょっとお洒落すぎて人々の心に響かないかもしれない。ここは一つ、「グローバリズムの三点セット」と野暮ったい表現をしてみたい。
安倍晋三内閣総理大臣と麻生太郎副総理兼財務大臣は、2012年12月に政権を獲得してから一貫して緊縮財政の路線を突き進んできた。
選挙をするたび圧勝し、環境に恵まれた彼らは、財政削減を繰り返して緊縮財政を続けてきた。そのため、政府の各部門の支出は民主党政権時代よりも少なくなったところが多くなっている。
新規国債発行額も年々減らされている(国債の記事を参照)
一般的に彼ら2人は保守派の政治家と見なされている。保守派なら国家の基礎を作るために国土建設や少子化対策を重視し積極財政の路線を進みそうなのだが、なぜかそうしない。国債発行額を減らし、財政支出を削り、消費税を増税し、目一杯の緊縮財政を追求しているのである。
彼ら2人が緊縮財政を敢行するときの言い草は決まり切っていて、「積極財政をすると、市場や格付け会社からの評価が悪くなる。市場や格付け会社からの評価を上げるため、緊縮財政にする」というものである。麻生太郎副総理兼財務大臣は2019年5月23日参議院財政金融委員会において西田昌司議員に対してそのように答弁しているし(議事録の四ページ)、安倍晋三内閣総理大臣も2013年5月15日参議院予算委員会において「財政再建をして市場の信認を確保する」という意味の答弁をしている(議事録の四七ページ)
日本国政府の首脳である安倍・麻生の御両人は、市場や格付け会社に対し、頭が上がらない。市場や格付け会社からの評価をひたすら恐れている。
市場や格付け会社は、リーマンショックという大不況の到来を全く予測できなかった。このため、リーマンショックのあとはアメリカ合衆国にも「市場や格付け会社の評価など当てにすべきではない」という態度の政治家が増えてきているのだが、安倍総理と麻生副総理はそういう潮流とは無縁であり、市場や格付け会社の評価を全面的に信頼し、無批判に受け入れているのである。
なぜ安倍晋三と麻生太郎が緊縮財政を追求するのか。
色々と原因が考えられるが、その中の最有力候補は渡部昇一だろうと思われる。
渡部昇一を簡単に説明すると、上智大教授で英語文法史を教えていた人である。1980年代~1990年代に保守派の論客として活躍し、いわゆる自虐史観(日本は悪かった史観)の論者と論戦を繰り返しており、「日本は悪くなかった史観」を主張する勢力の中心的存在だった。インターネットのない時代はマスコミの情報発信力がやたらと強かったのだがそれにも全く屈せず戦っていたので、保守派にとってはまさに英雄と言った感じの人なのである(左派の皆さんからは蛇蝎のごとく嫌われている)。
その渡部昇一は、グローバリズム(市場原理主義)の熱烈な信奉者なのである。彼の書いたグローバリズム賛美本は数多く、図書館に置いてあることが多い。そのうち1つは『まさしく歴史は繰りかえす』という本で、国境をなくしたボーダレスの世界が既に到来しており、その中を生き抜くにはユダヤ人富豪の真似をすべき、ユダヤ人には才能を持つエリートが多いが国家・国境・政府に頼らない生き方をしてきたからである、金持ち優遇の税制にしてユダヤ人大富豪が日本に帰化するようにしろ、などと書いてある。「グローバリズムは素晴らしい」という段階を既に過ぎ去っており「グローバリズムは歴史の必然、その中で生き抜くにはこうせよ」と主張するレベルの人だった。
大規模な規制緩和をしたマーガレット・サッチャーを誉め称え、大蔵省の護送船団方式(銀行業界を統制する政策)を猛批判するなど、規制緩和も賞賛していた。フリードリッヒ・ハイエクという市場原理主義の旗手といえる経済学者を絶賛し、「小さな政府を目指せ、規制緩和せよ、福祉国家はダメだ」と論じていた(渡部昇一がハイエクを賞賛する本の代表例はこちら)
「自虐史観を論戦で破り続けて日本の名誉と尊厳と誇りを取り戻した保守派の英雄である渡部昇一先生が、グローバリズム(市場原理主義)を肯定して『小さな政府』を奨励している。ならば、緊縮財政を続けて『小さな政府』を目指そう」と、安倍晋三と麻生太郎は考えているものと思われる。憧れの人物の真似をしているというわけである。
渡部昇一は2017年4月17日に他界した。そのとき、安倍晋三はFacebookでコメントし(記事)、葬儀にも参列している(記事)。
麻生太郎も葬儀に参列し、「(渡部昇一は)知性の巨匠だったと思う。左っぽい人が多かった中で、唯一の保守的な人だったんじゃないかな」とコメントしている(記事)。
安倍晋三、麻生太郎の両人が心から敬服し、心酔しているのだろうことがよく窺える。
実際、安倍晋三と麻生太郎は「渡部昇一が政治家になっていたら、こうなったんじゃないか」と思えるほど渡部昇一に行動が似ている。2人ともマスコミの記者を言い負かすのが大好きで、韓国や中国に厳しい態度で臨み、アメリカには親和的で、市場に対して全幅の信頼を寄せ、『小さな政府』の信奉者である。
安倍晋三と麻生太郎の精神的支柱である渡部昇一が安倍政権の緊縮財政路線の真因である、というのはもちろん推論でしかないのだが、非常に説得力がある。誰か、安倍晋三や麻生太郎に質問して、確かめてみてほしい。
(本項目は敬称を略して記述しました)
官公庁にとって緊縮財政というのは、要するに、仕事をやめる、仕事を放棄する、仕事を失う、ということになる。予算を削られることによって人員の削減に追い込まれ、事業計画の規模が縮小したり、あるいは事業計画自体が消滅したりする。
国会議員にとっても事情は同じで、緊縮財政になると国会議員の仕事が減る。
積極財政のときは、予算をしっかり消化するために業者の手配をしなければならず、国会議員が調整をしっかり行う必要があり、国会議員の仕事が増える。「予算を付けたのに、その予算を使って仕事をする民間企業が不足していて計画が進まない」という間抜けな事態になってはいけないので、公共事業を引き受ける民間企業たちと大いに話し合わねばならない。緊縮財政においては、国会議員はそうした忙しさから解放されるのである。
このため、調整の仕事をするのが嫌いな国会議員、もう少しキツい言い方をすると調整の仕事をサボりたがる怠け者の国会議員、そういう人が緊縮財政を支持する傾向にある。
緊縮財政を政府・国会に対して要求してくる法律というと、財政法第4条である。
財政法第4条 国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
橋や道路の建設といった公共事業に関するものの財源には国債を使ってよい、と定めている。これを建設国債という。
公共事業以外の支出は国債でまかなってはならない、と定めている。つまり公務員の給料の支払いだったり、政府の抱える研究機関の開発予算だったり、そういう支出に対して国債を発行するのはダメで、税収の範囲内に支出を削りなさいといっている。いかにもといった感じの、緊縮財政志向の法律である。
財政法第4条を守っていては政府予算が組めないので、毎年、特例国債法という1年かぎりの法律を国会で成立させ、公共事業以外の支払いにあてるための国債を発行している。これを特例国債という。
要するに、財政法第4条は、毎年骨抜きにされているのである。
財政法第4条を骨抜きにする国会議員たちにも言い分があり、「財政法の上位にあたる憲法第83条や第85条では『どれだけ国債を発行するかは国会が自由に決めてよい』と解釈できる条文になっている」というものである。
日本国憲法第83条と第85条は、次のようになっている。
日本国憲法第83条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
日本国憲法第85条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
これらの条文から導かれるのは財政民主主義というものである。国民の代表者である国会には、国の財政を決める権限が与えられている。「国会が公共事業以外の支払いにあてるための国債を発行することを決議したら、その意向が通るのは当然だ」という解釈が成り立ち、財政法第4条もあっさりと無視される。
ちなみに日本国憲法にはこういう条文もある。
日本国憲法第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
財政法第4条というのは法律なのだが、日本国憲法にはとても勝てない。第41条と第83条と第85条の3つに逆らうことは不可能である。こうして、財政法第4条は毎年のように完全無視されている。
財政法が制定されたのは1947年(昭和22年)である。この法律の制定に関わったのが、平井平治という人物である。当時、大蔵省に勤めていて主計局法規課長の地位にあった。
この人は反戦平和の思想を胸に秘めていた人で、「戦争遂行には国債の発行が不可欠である。ならば、国債を発行不可能にしてしまえば、戦争をすることができなくなる」という発想のもとに、財政法第4条を立案したという。そのことは1947年出版の『財政法逐条解説』という本に記されている。
日本の左派政党というと、反戦平和をとても熱心に主張する。その左派政党の1つである日本社会党は、1965年に初めて特例国債法が可決成立したときに「特例国債は戦争につながる」と猛反対していた。また、現在の日本共産党も特例国債法を常に批判する。
反戦平和と緊縮財政はとても相性がいい、と言える。
※この項の資料・・・佐藤健志『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』40~50ページ、しんぶん赤旗2008年4月24日版、三橋貴明ブログ
日本国憲法は、どのような財政政策を志向しているのか、本項目で確認しておきたい。
ちなみに日本国憲法というのは、公務員全員に対して義務を課す法規であり、その影響力の大きさは財政法をはるかに上回る。
日本国憲法第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
国務大臣は行政府の人事権を握る人のことで、国会議員は立法府の構成員で、裁判官は司法府の構成員である。つまり、行政・立法・司法の三権に関わる公務員は、全員、憲法を尊重し擁護せねばならない。
日本国憲法の前文というのは、各条文の前にある文章で、同憲法の趣旨について記している。
そこには、「政府は国民に福利をもたらすべし」という文章が明確に記されている。
日本国憲法前文 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
国民が国政の福利を享受する、と書いてある。これはもちろん、政府に対して「国民に福利をもたらすような財政政策をせよ」と命じていることになる。
ちなみに、「政府は国民に福利をもたらすべし」という文章は、インフレが激しいときに緊縮財政を導入するときの根拠になり得る。年間インフレ率が10%以上になるギャロッピング・インフレのときは、緊縮財政をしてインフレを押さえ込むことが国民に福利をもたらすことになる。
ゆえに、「政府は国民に福利をもたらすべし」という文章は、「いついかなる場合でも積極財政をせよ」と政府に命じているわけではない。「インフレ率に応じて、積極財政と緊縮財政を使い分けなさい」と政府に命じている、と解釈することができるだろう。
積極財政を政府に対して要求してくる法規というと、憲法第25条第2項である。
日本国憲法第25条第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
いかにもといった積極財政寄りの条文である。このため、積極財政の支持者にとって、憲法第25条第2項は心のよりどころである。
ただ、憲法第25条はプログラム規定とされており、政府に対して努力目標を課しただけで、実際にどれだけの政策をするかについては政府や国会の裁量にまかされている。憲法第25条のニコニコ大百科記事にも、第25条をプログラム規定と扱う最高裁判決がいくつか紹介されている。
このため、憲法第25条第2項を主張するだけで積極財政の予算が通るわけではない。
日本国憲法には、「政府の貸借対照表(バランスシート)が債務超過になることは許されない」という考えを示す文章が出てこない。前文にも出てこないし、そういう内容の条文も存在しない。
何故そうなのかというと、「国家の存亡を左右するような重大事態が発生したら、政府は、債務を大量に発行してでも対応すべきである」という思想があるからだと思われる。
国家の存亡を左右するような重大事態というのは、要するに、他国軍隊の侵略とか、反政府武装勢力との内戦のことである。そういう事態に追いこまれたとき「債務超過になってはいけないから国債を発行せずに済ませよう」などと寝ぼけたことを言っていると、あっという間に首都を占領され、国家が滅亡してしまう。
アメリカ合衆国の歴史を振り返っても、南北戦争という内戦で国債を大量発行したし、対外戦争でも国債を大量発行した。国家の危機を乗り切るためには国債発行が必須である。
国債を大量発行して政府支出を増やして国家の主権を維持する、という選択肢を政府に与えるため、日本国憲法には「政府の債務超過を許さない」という条文が入っていない。
1990年代の日本国政府は、土下座外交と呼ばれる外交政策を継続的に行っていた。
そうした土下座外交と、日本における緊縮財政というのは、色々と共通点があるので、この項目で解説したい。
日本の全公務員には、日本国憲法を尊重し擁護する義務が課せられている。その日本国憲法には、国民主権が謳われており、国民の信認を得られるような政治をすべしと規定している。つまり、外国人に気に入られることを目指す政治はやめなさい、と規定している。
政治資金規正法の第22条の5では、外国人からの政治献金を禁止している。これは、日本国憲法の国民主権から導かれた条文だといえる。前原誠司大臣は、これに引っかかって、2011年3月6日に外務大臣という職を辞任する羽目になった。
土下座外交は、外国政府の顔色をうかがい、外国人に気に入られることを目指す政策だった。
日本の緊縮財政は、「市場の信認を得るために財政再建します」と宣言することが常である。安倍晋三総理は、市場の信認を得るために財政再建をする、と国会で答弁している(議事録四七ページ)。麻生太郎副総理に至っては、格付け会社の評価を得ることが大事である、と答弁しているほどである(議事録四ページ)。
当然のことながら、市場というのは大勢の外国人が入りこんでいる場所である。また、格付け会社の大手というと米国の民間企業であるので、格付け会社の評価を得るための政治というのは外国人に気に入られることを目指す政治ということになる。
とにかく罪悪感を刺激する、というのも共通点の1つである。反対する人の罪悪感を刺激し、反対する人を「自分は迷惑を掛けている。申し訳ない」という弱気な気分にさせ、そうして自分たちの主張をゴリ押しするという技法を体得している。
土下座外交の思想的背景は自虐史観であり、「日本は戦争で罪を犯し、周辺国に迷惑を掛けた悪者だ」ということを、殊更(ことさら)に強調するものだった。そして、土下座外交に反対する人に対して「戦争の罪深さを理解できないことは、罪深いことだ」などと言い、またしても罪悪感を刺激するのである。
日本の緊縮財政というものの思想的背景は、国債悪玉論である。「国債発行は、将来の子孫に負担を押しつけ、迷惑を掛ける、とても罪深くて悪い行いだ」という言い回しで、国債発行を罪悪視し、国債発行を主張するものを犯罪者扱いするのが特徴である。
1970年代の緊縮財政の旗手というと、大平正芳である。この人は、1975年(昭和50年)の予算編成の際、大蔵大臣を務めていた。税収が不足したので、10年振りに特例国債法を制定して特例国債を発行することになった。このとき大平正芳大臣は「万死に値する。一生かけて償う」と発言したと伝えられている(記事)。もう、まるっきり、国債発行を犯罪と扱っている。
余談ながら、道徳・倫理の点で責め立て、「あなたは罪を犯した悪い人だ」と糾弾し、「自分は迷惑を掛けた、申し訳ない」という自責の念を持たせ、罪悪感で金縛りにする、というのは、人を支配する上でとても有効な技法である。
人というのは、やはり良心的な存在であり、道徳や倫理をかなり気にする種類の生命体である。「お前は悪いことをした犯罪者だ」と直言されると、誰しも顔色を失い、弱気になり、ひどい場合は脚が震えて涙を流すことになる。人はそれだけ道徳を気にする生物である。もちろん、ごく少数の例外がいて、そういう例外はサイコパスと呼ばれるのだが、やはり道徳を気にする良心的な人の方が圧倒的に多い。
だから、人のそういう性質を利用しようとする者も現れる。信者に対して「君は悪いことをした」と吹き込む新興宗教がしばしば見受けられるが、信者の罪悪感を刺激して弱気にさせ、支配しやすいようにしているわけである。
そういうわけで、土下座外交と緊縮財政は、なかなかよく似ている。
ゆえに、緊縮財政のことを土下座財政とか自虐財政と呼ぶのも一興であるといえよう。
緊縮財政の支持者の言い分を色々聞いて、そうした言い分の理論的根拠を突き詰めていくと、ある1つの思想に到達することになる。
その思想は、「政府は民間企業と同じような存在で、貸借対照表の純資産や損益計算書の利益を追求すべきである」というものである。この思想から、全ての緊縮財政の考え方が生まれてくる、と言ってよいだろう。
すでに述べてきたように、政府というのは憲法で債務超過を禁止されているわけではなく、債務超過になっても許される存在であり、民間企業とは大きく異なった特殊な存在である。
そうした政府の特殊性や特質をまったく理解しないから、「政府は民間企業と同じである」という思想に傾倒するわけである。
さらにいうと、政府の特殊性や特質を理解しようとしない姿勢は、無政府主義(アナーキズム)そのものだといえる。
「政府は民間企業と同じである」という思想は無政府主義(アナーキズム)の一種である、と言い切ってもよいと思われる。
無政府主義を簡単に説明すると、政府の存在を否定しようとする思想のことである。一部の無政府主義はテロリズムや暴力主義を支持するので、とてもイメージが悪い。「無政府主義と共産主義が合流して、ロシア革命の原動力になり、ソ連を生み出した」などと説明されることがある。
なぜ、「政府は民間企業と同じように振る舞うべきである」という考えが日本に広がったか、というと、色んな原因が考えられる。
いくつかある原因のうちの有力なものは、1990年代の保守派論壇で流行した民尊官卑の政治的ムーブメントだろうと思われる。
民尊官卑は、「民間企業を尊び、官僚を卑下する」という思想のことである。反対の概念は官尊民卑で、「官僚を尊び、民間企業を卑下する」という思想である。
1990年代の保守派論壇で人気者だったのは、渡部昇一と小室直樹だった。この2人は保守派のアイドルといっていいような存在で、出す本がよく売れていて、書店の新刊コーナーにおける常連だった。
そしてこの2人ともが民尊官卑の思想の持ち主で、「すべての官僚は悪い」という官僚性悪説を多数の著書で何度も繰り返し書いていた。
保守派の多くから人気を集める渡部昇一と小室直樹が官僚をボコボコにバッシングするのを見て、「官僚風のやり方をすると叩かれる、民間企業のまねごとをしよう、民間企業ごっこをしよう、民間企業の経営者になりきった気分で国家の運営をしよう、税収を増やして国債を減らして貸借対照表の純資産を目指すようにしよう」という気運が保守派国会議員や保守派官僚に広がった、というのが、平成の政治史の1つの側面であると思われる。
財政政策というのは、租税主義者(財政再建を唱えるグループ)と、国債主義者(積極財政を唱えるグループ)が、激しく対立する分野である。
両者はあまりにも激しく対立しており、その抗争の模様は、情報戦といってよいレベルに達している。お互いが、情報戦で優位に立つべく、高度で巧みな技術を駆使し、知恵をひねり出している。
高度で巧みな技術を用いた情報戦というが、要するに、蔑称を与え合っているのである。いわば、悪口合戦である。相手を悪いイメージの付いた名で呼んで、相手のイメージを悪化させ、イメージの世界で勝利しようと頑張っている。
租税主義者たちが国債主義者に与える蔑称は、以下のようなものである。
財政悪化、不健全財政、放漫財政、財政赤字、赤字国債、赤字支出、借金まみれ、異端の学説、債務拡大、負担の増大、将来世代へのツケ、持続可能性の欠如、目標達成の努力の放棄
これに対し、国債主義者も負けずに反撃し、租税主義者を次のような表現で呼ぶ。
緊縮財政、消極財政、支出削減、国債発行削減、小さな政府、政府の弱体化、少子化の放置、社会持続性の欠如、インフラ建設の努力の放棄
現状では、租税主義者の方がすこしだけ、情報戦の分野で優位に立っていると言えるだろうか。なんと言っても、「赤字」という言葉がもたらす負のイメージは強烈である。
中野剛志もこのことに気付いており、この本の246~248ページで、「赤字や債務という言葉の影響力が強い」と指摘している。
しかしながら、中野剛志はそれに気付いていながら、自著で「財政赤字」「赤字支出」という表現を多用してしまっている。情報戦で勝ちたかったら、そういう表現を慎むべきだと思われるのだが・・・
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/12(金) 21:00
最終更新:2025/12/12(金) 21:00
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