アカネテンリュウ単語

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アカネテンリュウ
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アカネテンリュウとは、1966年生まれの日本競走馬である。黒鹿毛

には2勝の下級条件だったにもかかわらず、からにかけて急成長して菊花賞を制した。人呼んで「戦後最大の上り」。

な勝ち
1969年:菊花賞(八大競走)、セントライト記念
1970年:日本経済賞
1971年:アメリカジョッキークラブカップ目黒記念(秋)
1972年:東京新聞杯

1969年啓衆社賞最優秀4歳

※当記事では活躍した当時に合わせて旧齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。

概要

チャイナロックミチアサヒンドスタンという血統。

チャイナロックは芝ダート問わず走る産駒を多く送り出した1973年リーディングサイアー。アカネテンリュウ以外のな活躍にはメジロタイヨウ、タケシバオーハイセイコーなどがいる。

ミチアサは中央で5勝の条件だが、4年間で52戦ものレースに出走しており、この驚くべきタフさは息子のアカネテンリュウにも受け継がれた。

ヒンドスタンシンザンとして知られる当時のリーディングサイアー同期ライバルワイルドモアミノルでもあった。

1966年4月30日に後にヒシミラクルオサイチジョージナオキの3頭の宝塚記念勝ちを送り出す大塚牧場で生まれた。その後鉄道模型で有名だった「アカネモデル」の創業者であった関野栄一氏に購入された後「アカネテンリュウ」と名付けられ、騎手時代にはカイソウクモハナダービーを勝ち、調教師となってからはフジノオーメリーナイスを手掛けた東京競馬場に厩舎を構える橋本雄厩舎に預けられた。

現役時代

アカネテンリュウは1968年12月新馬戦野平祐二騎手上にデビューしたが、特にいいところなく7着に敗れ、以降なかなか勝ち上がれない日々を過ごした。結局1勝を挙げたのは翌1969年3月末で、ここまで7戦もかかっていた。皐月賞尾形厩舎四天王と呼ばれたワイルドモアが1番人気に応えて3身差の圧勝を決めている頃、アカネテンリュウは同じ日に行われた160万下の千賞を12着に惨敗していた。5月の90万下条件戦でようやく2勝を挙げるものの日本ダービーは10日後にまで迫っておりどうにもならず、日本ダービーダイシンボルガード乱入した厩務員と勝利の喜びを分かち合っている頃、アカネテンリュウはまだ2勝の条件に過ぎなかった。

その後アカネテンリュウは6月を年初からの連戦の疲れを取るために休養に充て、7月函館開催に赴いた。上にはここからの騎手として丸敏栄騎手を迎え、250万下の条件戦に出走。前走の勝利もあり2番人気に推され、2着クインビーに1身差を付けて3勝。次戦の駒場特別も勝利してオープンクラスへ上がったが、初のオープン戦は4着に終わり、そのまま夏休みに入った。

初戦は念願のクラシック出走をセントライト記念から始動。11頭中7番人気兵扱いだったものの、の休養を経てアカネテンリュウは本格化を迎えていた。本番では尾形厩舎四天王の1頭でダービー2着ミノルを2身半差で破り重賞初制覇。前戦2戦京都盃では12頭立ての最低人気キングスピードが得意の重馬場大逃げを打ち9身差で逃げ切られ2着に敗れた。しかし3着ミノルを3身、4着のダービーダイシンボルガードは8身突き放し4番人気以上の走りで自身の強さもまた示すことが出来た。

本番の菊花賞ではここまで見せてきた強さを遂に認められ、21頭立ての1番人気に推された。2番人気はこれまで何度も戦った来たライバルミノル、3番人気ダービーで27番から逃げて3着にった尾形厩舎四天王の1頭ハクエイホウだった。レースでは前評判通りハクエイホウが逃げを打ち、ミノルダイシンボルガードなど他の人気が中団につく中後方で息を潜め、2週の坂の下で一気に仕掛け先頭を奪うと一緒のタイミングで抜け出してきた5番人気リキエイカン手にヨレながら突き放し4身差で勝した。の時点では下級条件戦を勝ち切れなかったが「最も強いが勝つ」と言われた菊花賞を圧勝して見せたことは当時相当な衝撃を持って受け止められたようで、アカネテンリュウはの上りの中でも特に「戦後最大の上り」と呼ばれり継がれることになった。

アカネテンリュウはその後年末の有馬記念へ4歳の代表としてダイシンボルガードハクエイホウ等と共に出走する。レースでは逃げハクエイホウを直線入り口で捉えようとするスピードシンボリをぴったりマークし直線で外から追い込んだが、しい叩き合いの末ハナ差及ばず惜しくも敗れた。しかし後続は4身突き放し菊花賞としての強さは十分見せることが出来た。

5歳初戦は1月アメリカジョッキークラブカップから始動。同じく始動戦となったスピードシンボリくも再戦することになった。4キロ斤量差もあるということでアカネテンリュウが1番人気スピードシンボリが2番人気にそれぞれ推されたものの、斤量60kgを背負うスピードシンボリレコードタイム叩き出し(本当に7歳か?)アカネテンリュウは2身差の2着に敗れた。次走目黒記念(春)トップハンデに泣き9kg軽いコンチネンタルの6着、次のマイラーズカップ距離が短かったか同期トウメイの5着と苦戦。大標の天皇賞(春)では菊花賞の実績が買われ1番人気に推されたが、その菊花賞で2着に敗れたリキエイカンがクビ差の接戦をレコードタイムで制する中5着に敗れ、再び勝ち切れないレースが続くようになってしまった。

営は不調気味になったアカネテンリュウの調子を取り戻すべく余裕のあるローテーションでオープン戦を2戦叩き[1]日本経済賞に出走した。相手にはまたもスピードシンボリや以前敗れた経験のあるコンチネンタルなどが立ち塞がったが、2着コウジョウとの叩き合いをクビ差で制し、さらにそこから3着スピードシンボリを3身離して古になってから初めての重賞制覇を達成した。

営はこの重賞勝利で感覚を掴んだのか、以降は較的余裕を持った間隔でレースに出走するようになった。日本経済賞の後の休養から戻ったアカネテンリュウは10月オープン戦を61kgの斤量を物ともせず勝利し、大天皇賞(秋)に出走する。ここでは前走で見せた強さから敵なしと思われ1番人気に推され辱をらせるかと思われたが、遅れて本格化してきた尾形厩舎四天王の最後の1頭、メジロアサマの3着に敗れた。年末の有馬記念では前年度覇者スピードシンボリ競馬で振るわなかったこともあって人気投票、単勝支持率でどちらも1番人気に推されたものの、アカネテンリュウは第4コーナーで外を回らされてしまい、直線で一気に追い込んで後輩菊花賞ダテテンリュウ、先に抜け出していたスピードシンボリと昨年同様しい叩き合いを演じたが、有馬記念連覇に照準を合わせて完璧仕上げてきたスピードシンボリが直線で作ったリードをクビ差の2着まで迫ることしかできなかった。

年明け6歳は昨年同様のアメリカジョッキークラブカップから始動。スピードシンボリ引退した今敵なしと思われ1番人気に推されトップハンデを背負って2身差の貫録勝ち。幸先よくスタートを切ったが、一頓挫あった様で春の天皇賞出走を見送っている。更にこの間戦の丸騎手が落事故で重傷を負ってしまい、復帰は半年後の函館オープン戦となった。星野信幸騎手上に出走したこのレースでも1番人気に推されたが、長期の休養明けに高ハンデが堪えたか3着に敗れ、続くステークスオールカマーのどちらも5着と精を欠くレース振りが続いた。

標とする天皇賞(秋)が迫る中、営は前年スピードシンボリ上として立ち塞がった野平祐二騎手に騎乗依頼を出した。野騎手営の期待に応えて次走目黒記念(秋)同期ライバルアポスピードコンチネンタルを半身抑えて勝利へ導いた。この勝利天皇賞(秋)では1番人気へと返り咲き、今度こそ悲願成るかと思われた。しかし本番では前戦に牝馬東京タイムズ杯(芝1600m)を使ってきた同期トウメイの前に10着と大敗。続く有馬記念では今年こそはというも多く前年同様人気投票1位に選出されたが、競走馬の間でインフルエンザが流行するという不運に見舞われ出走どころではくなってしまい。メジロアサマ、カミタカと共に出走取消。史上最少頭数となった6頭立てで1着から3着までをトウメイコンチネンタルダイシンボルガード同期3頭が独占するのをを咥えて見ているしかなかった。

1972年、アカネテンリュウはもう7歳になっていた。しかし営は天皇賞勝利を諦めることが出来ず、春の天皇賞まで現役を続行することになった。インフルエンザの癒えたアカネテンリュウは3月中山記念でトウショウピットのアタマ差2着とした後、中2週で東京新聞杯に出走し2着ラファールをクビ差振り切り目黒記念(秋)遺体重賞勝利を達成した。営は焦らずじっくり調整したうえでアカネテンリュウを天皇賞へ送り出した。営の気合はファンにも伝わっていたようで、アカネテンリュウは衰えの見える7歳でありながら2つ下の若き俊英ベルワイド、フイドールに次ぐ3番人気に推された。レースでは序盤にくも先頭に立ち逃げるベルワイドを捉えるべく坂の下りで中団から3番手に押し上げて直線で懸命に走ったが、ベルワイドキームスビィミーの叩き合いに加わることは出来ず、4身差の3着まで。有馬記念は3度挑戦し2着2回、天皇賞は4度挑戦し3着2回までで、遂にどちらも勝利することは出来なかった。

引退後

引退後は1973年日本種馬協会に引き取られ種牡馬となり、那須種馬場で種牡馬生活を送ったが、現役時代上りとして人気を集めた戦績は晩成のステイヤーとしか見られず敬遠され、古になってから大レースで勝ち切れなかったこともあり良質の繁殖牝馬が集まらず、代表産駒地方競馬名古屋競馬デビューしてから中央に移籍し900万下条件戦を勝ったモガミテンリュウといったところで種牡馬としては同じを持つタケシバオーハイセイコーとは違い全く活躍できなかった。その後は引退してから13年がたった1985年に腸閉塞死亡。20歳であった。

アカネテンリュウが菊花賞勝利した時に呼ばれた「戦後最大の上り」という異名はアカネテンリュウが中央競馬を去った後もしばらく残り、に実績のなかった菊花賞勝利するたびに「アカネテンリュウの再来」と呼ばれたり、「第二のアカネテンリュウを探せ」といった使われ方をすることもあった。現代では前戦も含めて映像付きで振り返ることが出来るようになったこともありアカネテンリュウのような衝撃を受けることも稀になったが、られることも少なくなったアカネテンリュウのような衝撃を受けるような上りが再び現れることを期待したいものである。

血統表

*チャイナロック
China Rock
1953 栃栗毛
Rockefella
1941 黒鹿毛
Hyperion Gainsborough
Selene
Rockfel Felstead
Rockliffe
May Wong
1934 栗毛
Rustom Pasha Son-in-Law
Cos
Wezzan Friar Marcus
Woodsprite
ミチアサ
1960 黒鹿毛
FNo.16-c
*ヒンドスタン
1946 黒鹿毛
Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
Sonibai Solario
Udaipur
プレイガイドクイン
1949 黒鹿毛
*ダイオライト Diophon
Needle Rock
ウヱツデインラス *シアンモア
第弐ウヱツデイングサーフ
競走馬の4代血統表

クロスGainsborough 4×5(9.38%)

アカネテンリュウの4つ下の半ムーンフィニックスの曾孫にヒシミラクルが、7つ下の全サチノイマイの子に阪神3歳S勝ちカツラギハイデンが、同じくサチノイマイの孫にオサイチジョージがいる。

関連動画

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関連項目

脚注

  1. *そうはいっても2戦の内1戦の相手は同期オークスシャダイターキンである

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