三遊亭圓右(さんゆうていえんう)とは明治・大正期にかけて活躍した噺家である。
ここでは初代三遊亭圓右を紹介する。
概要
初代三遊亭圓右。本名は沢木勘次郎。万延元年に生まれて大正十三年に亡くなった。圓右の伯父が三遊亭圓朝のお囃子を担当していた関係で若いころから寄席の楽屋に出入りするようになる。12歳の頃に圓朝に弟子入りすることを希望するが、圓朝門下は既に弟子が多く、手が足りなかったために二代目三遊亭圓橘に預けられ、三遊亭橘六を名乗る。
同時期の名人として、同じ三遊派からは四代目橘家圓喬、柳派には三代目柳家小さんがいた。圓喬は噺家になった時から40年来の親友であり、前座時代を共に過ごした仲である。三代目柳家小さんともお互い親友であり、ライバルとして認め合うほどの仲である。
圓右と圓朝の関係は表向きは孫弟子であるが、圓右自身は自分は圓朝の弟子と語っており、二代目圓橘の弟子であると口にしなかった変な面がある。だが、圓右は圓朝直々に噺の稽古を受けており真打昇進の際は圓朝の右腕になれとの思い入れから圓右を名乗ることになった。それが認められたのか、そのうち仲間内でも圓右は圓朝門下と言われるようになる。
ズボラで稽古はせず、真打昇進してから数年賭博にハマるなどろくである。稽古嫌いな所は大正期の三遊派の総帥である四代目橘家圓蔵とも共通する。落語研究会で「包丁」を演じることになり、その朝に音曲師に教えて貰ったのだが忘れて同じところを何回も繰り返し、何とかその先を思いて終わらせるなど危なっかしい事も多々ある。
圓右は人情噺を売り物としており、特に「唐茄子屋政談」、「火事息子」などの泣ける人情噺においては四代目橘家圓喬よりも上手いと評されていた。だが人情噺だけでなく、滑稽噺の「弥次郎」、怪談噺の「真景累ヶ淵」なども一品であった。
三遊亭圓朝の死後から二十六年後に圓右に二代目三遊亭圓朝の襲名の話が持ち上がったのだが、肺炎の影響で高座に上がれない状況であった。しかし圓右がなくなる数日前に圓右の自宅で二代目三遊亭圓朝を襲名して次の日の新聞にも圓右が圓朝を襲名したことが書かれたのだが、高座に上がることもなく亡くなった。
写真に多く残っている圓右の容姿は頭が禿げてていかりや長介の様な感じであるが、若いころの圓右は毛がフサフサで凛々しいナリを醸し出している。
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