河鍋暁斎とは、幕末から明治時代にかけて活動した浮世絵師、画家。別名洞郁陳之(とういくのりゆき)、川鍋洞郁、惺々狂斎(せいせいきょうさい)など。
概要
天保2年(1831年)4月7日、古川藩士・川鍋喜右衛門の三男に生まれる。幼名は周三郎。
3歳の頃から絵を描き始める。父に絵の天分を期待され、7歳で浮世絵師・歌川国芳に入門。10歳で狩野派の前村洞和、次いで狩野洞白に絵を学び、嘉永2年(1849年)、洞白より洞郁陳之という画号を与えられる。以降、浮世絵、狩野派に限らずありとあらゆるジャンルの絵を描いた。
安政4年(1857年)に絵師として独立。翌安政5年(1858年)から「河鍋狂斎」と号す。狂画、風刺画、錦絵などで人気を博す。
明治3年(1870年)、風刺画の筆禍事件を起こして逮捕され、翌年まで投獄。明治4年(1871年)1月、笞打ち50の刑を受けた後放免され、以後、画号を狂斎から暁斎に改める。
明治6年(1873年)、ウイーン万国博覧会に「神功皇后・武内宿禰の図」を送る。明治以後は新しい媒体として勃興していた新聞の挿絵や、演劇用の広告絵なども手掛けた。
明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会にて、日本画の最高賞を受賞。
外国人との交流も盛んに行い、フランス人実業家エミール・ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと肖像画を競いあった。また、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルを弟子にしている。
明治22年(1889年)4月26日、胃癌により死去。享年59。
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