月岡芳年とは、幕末から明治時代にかけて活動した浮世絵師である。別名一魁斎芳年、大蘇芳年。
通称「最後の浮世絵師」
概要
天保10年(1839年)、江戸新橋南大阪町に生まれる。 絵師を志し、嘉永年間に歌川国芳に師事する。兄弟弟子に新聞錦絵で知られる落合芳幾や河鍋暁斎がいる。
黒船来航の嘉永6年(1853年)から絵師として活動を始め、初期は三枚続の合戦絵や名所絵、また当時開港したばかりの横浜の絵を描き人気を博す。
慶応2年(1866年)、落合芳幾との共作で血みどろ絵として著名な「英名二十八衆句」を発表。
慶応4年(1868年)、上野戦争の際に戦死者を実見して描いた「魁題百撰相」を発表。豊原国周、落合芳幾と並び浮世絵の三傑と称される。
明治に入ると人気の高まりと共に仕事量が増大して精神的な疲労が続く中、明治5年(1872年)に発表した自信作「一魁随筆」の売れ行きが思わしくなかったため鬱病に陥ったが、翌明治6年(1873年)に持ち直し、再起の思いを込めて「大蘇芳年」と号する。
明治7年(1874年)から「郵便報知新聞」で社会風俗・事件を元にした新聞錦絵を描く。
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると戦場を題材にした絵を描いて評判となり、翌明治11年(1878年)から刊行された「大日本名将鑑」が大ヒット。慶応~明治初期に続く第二の最盛期に入る。
明治18年(1885年)、その生涯における代表作の一つ「奥州安達がはらひとつ家の図」を描き絵師番付で一位を獲得。絵師としての地位を不動のものとした。その後亡くなる明治25年(1892年)までの間に月にまつわる説話を題材とする代表作「月百姿」を制作した。
弟子の育成にも熱心で、門弟は80人いたと言われており、その弟子達に「これからは洋画の時代だ」と言って洋画家に弟子入りさせるなどしている。
明治24年(1891年)から深酒がたたって健康を害し入院。翌明治25年、回復しつつあるかに見えたが6月9日に病状が悪化し脳充血によって死去。享年53歳。
谷崎潤一郎、江戸川乱歩、三島由紀夫、花輪和一、丸尾末広といった近現代の作家達に猟奇的な傾向の絵を愛好されたため、芳年といえば「血みどろ」「無惨絵」と思われがちだが、実際にはそれら残酷描写に留まらない幅広いジャンルの絵を描いている。(関連動画参照)
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