相馬高胤(そうま・たかたね 1424 ~ 1492)とは、陸奥国の戦国大名である。相馬家12代当主。相馬重胤の子。子に相馬盛胤がいる。
生涯
1440年に父が重病を理由に隠居したため、17歳で家督を継いだ。当初、名を『隆胤』と名乗っており、相馬領の南に位置する標葉盛隆、またはその子・標葉清隆より一字を拝領したものと思われる。
しかし、領土の境界線が接していたため、次第に対立するようになり、『隆』の字を捨てて『高胤』へと改めた。
また、家中においても高胤に反感を持つ家臣団がおり、一時は追い込まれるも家臣の機転によりこれを滅ぼした。
関東で享徳の乱が勃発すると、室町幕府8代将軍・足利義政より討伐命令が下った。当初は奥州の有力豪族である白河直朝と大崎教兼に下っていたが、南下しなかったために高胤たち他の奥州の豪族や大名にも幕命が届いた。
しかし、高胤らも戦闘地域である下総に南下せずに所領に留まった。敵対している標葉清隆や他に相馬氏に嫌悪感を抱く豪族の動向が気になったからであろう。
同時期に高胤は標葉氏と対立していた岩城隆忠・岩城親隆父子や南奥州最大の豪族である白河直朝と同盟を結び外交にも力を注いだ。
晩年、標葉氏の居城である権現堂城を攻め立てるも、標葉家臣の奮闘もあり志半ばで病に倒れて病没してしまった。
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