白河直朝(しらかわ・なおとも 1410? ~ 1493?)とは、陸奥国の戦国大名である。白河結城家7代当主。小峰朝親の子。白河氏朝の養子。兄弟に小峰直親。子に白河政朝。
概要
陸奥(岩代)の戦国大名。関東の戦乱で下総の結城氏宗家が没落しているのを横目に、白河結城氏の全盛時代を築き上げた南奥の雄のひとりである。
白河結城氏について
白河結城氏(以下白河氏)は下総結城家2代当主・結城朝広の子・白河祐広(13世紀中盤の人)に始まる結城氏の分流である。正式には「結城」を名乗っていたが、下総の本家と区別するために俗に「白河」の名で呼ばれる事が多い。この大百科でも便宜上、白河結城一族は全員白河表記とさせていただく。
その名の通り『白河の関』で有名な陸奥国白河(現在の福島県白河市周辺)を領地としていた。本拠地は搦目城や白河小峰城。
2代・白河宗広は南北朝の争いで南朝につき、宗家・下総結城氏と対立した。この時代、後醍醐天皇の一存によって一時的に結城宗家の座は白河結城氏へと移っている。
宗広の子・小峰親朝は分家の小峰氏を設立した。彼は正確には白河氏当主ではないのだが、南北朝の争いの中で事実上の棟梁を務めていた事、彼の子・白河顕朝が白河氏の後継となった事などから3代当主として数えられる場合もある。この大百科でも、顕朝を含めた代数で表記しているので注意してほしい。
小峰親朝は嫡男・白河顕朝(4代)に白河氏を、次男・小峰朝常に小峰氏を継がせる。また北朝へと寝返って結城宗家の座も返上しており、以降の白河氏は下総結城氏からは本格的に独立した存在になっていった。
顕朝の跡を継いだのは小峰氏からの養子・白河満朝(5代)で、彼を含めて3代続けて養子による相続が続く。小峰氏は以降も有力な分家として白河氏を助けているが、後々には内紛の種となっていく。
満朝には実子がいたが、上那須家との関係強化を企んだのか那須資朝の子を養子に迎え、白河氏朝(6代)として相続させた。このように養子相続が続く大名・豪族というのは、たいした勢力拡大もできなかったり衰退するケースが多い(例:稗貫氏)。しかし、氏朝は白河氏を南奥のそこそこ有力な勢力へと発展させた。
ちなみにこの頃、お隣の那須氏は上那須家と下那須家に分裂して内紛状態となっており、前述の通り白河氏は上那須家との関係を強めつつあった。(※この争い、最終的に勝利するのは下那須家である)
生涯
永享の乱・結城合戦 … 白河栄光時代の始まり
庶流・小峰氏に生まれたが、6代当主・白河氏朝の養子となる。養父の後見を受けながら1432年に家督を継いだ。同年に修理大夫に任じられている。
1438年、鎌倉公方と関東管領&室町幕府が対立した『永享の乱』が起こると、養父の実家である上那須家と共に幕府方について活躍し(ちなみに下那須家は鎌倉方)、下野をはじめとした北関東の諸氏に対して睨みを利かせた。養父の没年は不明だがこの頃までは健在だったらしい。
永享の乱は鎌倉公方・足利持氏とその嫡男・足利義久が自害し、鎌倉府の滅亡という結果に終わった。だが、幕府の関東への影響力が強まるのを嫌った下総結城氏当主・結城氏朝は、匿っていた持氏の遺児2人を旗頭に挙兵する(結城合戦)。だが幕府軍相手では多勢に無勢であり、氏朝らは自害。こうして結城宗家も一時的に滅亡する。鎌倉公方と結城氏はまもなく再興を許されているが、幕府方についていた白河氏は衰えた宗家を差し置き南奥屈指の勢力へと成長した。
この頃の争いでは、概ね白河氏(と上那須家)は幕府方、下総結城氏(と下那須家)は鎌倉方につく状況が多く、直接激突するような状況ではないにしろ対立構図にあったのは間違いないだろう。
1454年に若年の嫡男・白河政朝に家督を譲るも、これは形式的なものであり、後見という立場で実権は握り続けている。同時期、会津の蘆名家では亡き父の跡を継いだばかりの新当主・蘆名盛詮に対して不満を持った家臣団による反乱が起き、盛詮を支援して鎮圧に協力した。
享徳の乱 … 白河黄金期
同じく1454年、復興した鎌倉公方が再び関東管領(上杉氏)と対立して『享徳の乱』が勃発。足利成氏は鎌倉を追われ、古河へ亡命して以降は古河公方を名乗る。1458年に成氏が宇都宮城を包囲・攻略して宇都宮等綱(上杉方)が追放されると、白河家ではこれを保護している。(しかし等綱の子・宇都宮明綱は古河方に路線変更し、対立関係となる)
乱に次ぐ乱で混迷深まる関東の情勢に危惧した8代将軍・足利義政は、奥州における白河氏の威勢を聞き及び、奥州探題・大崎教兼と白河氏に足利成氏討伐を命じたが、直朝たちはこれに応じなかった。
いくら幕府の命と言えども南奥から下総までは遠い。大崎教兼は更に北に勢力をもっていたのでやはり遠い。大崎氏は隣国の葛西氏と領土争いの勃発の機運が高まっていた時期でもあったし、白河氏にしても先述の蘆名氏や両那須家の争いなど周辺は慌ただしい状況。ということで領地を留守にして兵を出せるような状態ではなかったのだ。
そもそも両家とも威勢・名声は幕府に伝わっているのだが、肝心の本領は実はそこまで大きくはなく、簡単に言うと地方の国人一揆のリーダーみたいな存在だった。なので周りの領主たちが揉めている状況では動けないのである。
出陣できない直朝は、代わりの行動として60年近く内紛を繰り返していた両那須家の仲をとりもってみたり、他家の抗争に介入して領土を獲得したりするなど、南奥~北関東にかけて影響力を駆使する事に努めた。こうして白河氏は直朝の代で全盛期を迎える事になる。
1466年には出家して本格的に隠居。1481年に政朝が主催した連歌会に出席し、これを楽しんでいる。晩年(1492年ごろ)には関川寺を中興開山した。それまでは天台宗であったが、曹洞宗に改宗したという。
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関連項目
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