ムツィオ・クレメンティ(1752~1832)とは、クラシック音楽の作曲家兼ピアニストである。ソナチネなどでお世話になった人も多く、さらに「グラドゥス・アド・パルナッスム」の作曲家としても有名。
1752年ローマに生まれた。親は銀細工師であったが、幼いころから音楽教育を受け、神童のオルガン奏者として活躍をしていた。やがて、ローマを訪れたピーター・ベックフォードの申し出で金を給付する代わりにロンドンに来いと誘われて彼の父親は承諾、1767年単身イギリスへと移った。
そこでは自分で厳しくセルフマネジメントしながら練習を続け、ひたすら音楽修行に身をささげた。1776年にベックフォードとの契約が完了しマリー・アントワネットの紹介でオーストリアのヨーゼフ2世のもとへと移る。そこでモーツァルトとのピアノ勝負があったかどうかは真偽は不明である。
リヨンで駆け落ちに失敗した後長らく結婚は行わず、以降長年独身生活を送った。ピアノ一本に絞った彼は作曲家だけではなく教師としても名をはせ、ジョン・フィールド、フリードリヒ・カルクブレンナー、ヨハン・バプティスト・クラーマー、イグナーツ・モシェレスといったそうそうたる顔ぶれの弟子を育成した。
その後1804年、52歳のとき18歳のカロリーネ・レーマンと結婚したものの、長男カールの出産によって死別。その後59歳で26歳のエマ・ギズボーンと結婚をして四児の父親となった。その後も作曲家としての活動をつづけ、80年の生涯は大往生を遂げて終わったのである。
彼もまたほぼすべてのジャンルの楽曲を残しているが、世界的にはソナチネや「グラドゥス・アド・パルナッスム」の作曲家として悪名を轟かせていて有名である。バイエル、ハノン、チェルニー、ブルグミュラーらと同様彼の楽曲の練習で挫折したものも多くいるのではないかと思われ、その証拠と言っては何だがドビュッシーにその退屈っぷりをパロディされた「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」という楽曲まで作られている。
しかし彼は多くのヴィルトゥオーソたちの源流にあたり、またほかの多くの楽曲が取り上げられるようになるなど、近年のクラシック音楽を取り巻く環境の中で少しづつではあるものの再評価が進められている。
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最終更新:2024/12/21(土) 22:00
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