この記事は曖昧さ回避です |
一条三位とは、次の二つのことを指す。
一条家の者で朝廷から三位の位を賜った場合の呼称である。一条家は近衛家に次ぎ、九条家、二条家、鷹司家と同格となる名門であった。故に左大臣、摂政といった高官を輩出している。三位とは朝廷の官位であり、一条家で三位の官位にあるものはすべて一条三位である。正確には「従三位 中納言(じゅさんみ ちゅうなごん)」であり、太政官四等官の次官(すけ)である。(必ずしも、役職と位階は一致しないため、権中納言のまま正三位になった可能性もないわけではない。)
ニコニコ動画では、水戸光圀(水戸黄門)との対決で名高い一条(六条)公麿三位中納言が特に有名である。
彼は当時政治の実権を握っていた徳川家に対しても一歩も引かず、堂々と立ち回った剛の者である。京都の商人と結託し悪事を働く幕府役人および協力者の放逐に腐心しており、元締めたる水戸光圀を追い詰めた。このとき、
「だまりゃ!麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!この事直ちに帝に言上し、きっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」
と歴史に残る名啖呵を切り、公家が短歌しか詠めない軟弱者ではないことを示した。
しかし時の左大臣は対幕府穏健派であり、一条三位は権力抗争に破れてしまう形で悪徳商人の放逐をなすことができなかった。この影響は現代まで続いており、京都商人の暗躍は今もなお続いているのである。
なお、水戸黄門の名の由来である「黄門」は中納言の唐名であり、一条三位と水戸黄門は官位上は同格ということになる。位階で見ると水戸徳川家の極位は正三位であるが水戸黄門は生前は従三位までであり、位階の面でも同格である。
日本史の授業に出てくる有名な藤原道長さんの子孫(藤原北家)がさらに5分家したうちの一家。
5摂家と言われる、日本で五家しかない摂政・関白の職を許された家柄。さらに其のうちの、2位タイの家柄である。 (一位は近衛家。2位タイ仲間が本家筋の九条家。江戸時代はじめの当主が天皇の息子さん(親王)だったりするため、家自体はちょっと新しいが、家格は2位タイである。)
簡単に言うと、運さえ良ければ普通に三十そこそこで従一位とか、関白とか、摂政とか歴任しちゃうすごい家だったわけであり、左大臣なんて・・・pgrって言えちゃう家柄だったりもする。
さらに言うと、明治天皇の奥さん、昭憲皇后陛下(後に皇太后陛下)も一条家出身
村上源氏系の六条家は冷泉家から養子が入り南北朝以降も、いわゆる羽林家(最高位大納言まで進める可能性のある家柄。(江戸時代は権大納言))として、明治維新以降も子爵家として現在まで存続している。(なお、藤原北家系の六条家は南北朝時代に断絶となっている。)
それと比較すると、一条家は先にも述べたとおり5摂家の一角であり、はっきり言って六条家とは格が違う。
よって、六条と表記している水戸黄門の回や アンサイクロペディアは非常に失礼なものである。
が、権中納言にならないわけではない。実際、江戸時代に3人の権大納言を輩出してもいる。
なお、公麿なる人物は一条家にも六条家にも居ないため、どちらの方が本当かというのは議論しても意味が無い。
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最終更新:2024/11/24(日) 12:00
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