北西部条例(英 Northwest Ordinance)とは、アメリカ合衆国で制定された法律である。
1787年に誕生から間もないアメリカで成立した、同国における行政区画と組織の最も基本的な法律である。
独立戦争の結果、英国から獲得した広大な五大湖周辺の土地を統治するため、最初はとりあえず分割して総督を配置し、人口が5000人に達したら議会を設けて準州、6万人に達したら共和政に基づく憲法制定の上、建国十三州と同等な権利をもつ行政主体(州)として認められるという三段階の組織法を設けた。
なお、この人口の定義は自由成人男子とされており、女性や子ども、黒人奴隷などはカウントされていない。
ここから二年後に制定されるアメリカ合衆国憲法にも、若干の修正を加えた上で追認され、アメリカにおける行政組織法の基盤の一つになった。
この対象となったアメリカ北西部の大本は、独立戦争からさらに10年以上遡った、フレンチ・インディアン戦争の講和条約にあたる1763年のパリ条約にはじまる。この条約で英国は高校世界史でも習う通り、フランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナという広大な植民地を獲得し、英国は植民地帝国として揺るぎない地位を獲得した。
一方で、英国は獲得した広大な領土の統治について悩みを抱えることになった。この戦争では敵国のフランスに味方するアメリカ先住民たちが英国と戦った。パリ条約の締結でフランスは去ったものの、先住民たちは未だに侮りがたい勢力を保持していた。
そこで、時の英国王ジョージ3世は彼らとの融和を図るために、パリ条約で獲得したその北米植民地について、13植民地(英領北米植民地)人が購入することを禁止することを宣言した(1763年宣言)。また、これは英国王室が先住民たちとの土地取引を制限せず、独占的に取り扱うことも宣言していたため、かねてからその地への入植と拡大を狙っていた13植民地の人々は不満を鬱積させて、独立戦争へ繋がる原因の一つとなった。
それから20年ほど時が流れて、アメリカはその領土のうち、カナダを除く全ての土地を手に入れた。しかし、自由になったことで、マサチューセッツやニューヨークなど、強い利害関係を持つ州が次々とその領有を主張し、政府の統制にも影響をおよぼすほどになっていた。
今でこそアメリカの各州は、強い権限を所持しつつも連邦政府の元では団結を保っているように見えるが、この時代のアメリカの州はてんでバラバラであり、現在の連邦政府にあたる連合会議は各州から構成される議員の定足数を慢性的に欠いている有様であった。
この新たに浮上した北西部の領土問題を巡っては、連合会議において度々議論の俎上にあがった。中には十三州の領域をそのまま横長に拡大させればいいなどというユニークな提案もあった(もしこれが採用されていれば、アメリカ国旗の星の数も13のままだったかもしれない)が、1784年にトマス・ジェファソンは、提案によってアパラチア山脈(アメリカ東南部にある山脈)以西の領土請求を取り下げさせて、新たに17州をその中に設置するという提案を行った。既存の州から切り離して対立を避けるのが主な狙いである。この提言は採択されなかったものの、これを元にして3年後に北西部条例が成立することになった。
1787年の連合会議によって、一定の条件を満たせば、その領域は州として、建国十三州と対等の発言権が認められるという法律が成立したわけだが、これは非常に画期的なことであった。当時の常識としては本国の外に新たに獲得した領土は植民地扱いで、その地域の人々が本国政府の意思決定に加わることなど考えられないことであった。そもそもアメリカも、本国にあたる英国からの度重なる代表なき課税などの圧政に耐えかねて独立した国である。
植民地として従属させるのではなく、法によって定められた要件を満たしさえすれば、本国政府の一員として認められるという方式は、国民たちの開拓意識を大いに高揚させ、制定から30年ほどでオハイオ州やインディアナ州など北西部領土は次々と州としての主権を獲得し、現在のアメリカの重要な構成主体となっている。
しかし、この条例は州としての主権を認めると共に、奴隷制を禁止していた為、南北戦争へと繋がる一つの火種にもなった。
この法律は合衆国の発展を象徴する基石の一つとして、アメリカのニューヨーク州に所在する、フェデラルホールの外壁に北西部条例を記念する銘板が刻まれている。
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最終更新:2025/12/24(水) 02:00
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