名和長年(?~1336)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
名和氏は村上源氏の流れを汲むとされた伯耆の国人で、海運業で経済的に成長していた。元弘の乱では当初隠岐に流されていた後醍醐天皇、千種忠顕らが脱出した際、これに協力を申し出たのが初出であるが、一方で息子・名和義高を楠木正成討伐軍に派遣させるなど、必ずしも帰属を明らかにはさせていなかった。
やがて後醍醐天皇が船上山で挙兵し、隠岐守護佐々木清高と対峙すると名和長年は宮方の主力となり、出雲守護塩冶高貞が味方に付き清高を敗走させた後は伯耆を制圧。天皇から伯耆守の称号を得たとされる。討幕にはこれ以降直接関わってはおらず、上洛の警護役を務めた
やがて建武政権が誕生すると、恩賞方、記録所、雑訴決断所を歴任し、従四位下の官位を与えられた他、東市正に任命され経済力も増していった。一方で反新政派に対する武力としても活動したのだが、足利尊氏が九州から再起し、入京すると、これと最後まで戦うが討ち死にを遂げた。
名和氏は以降も甥の名和長重らが南朝の主力となるが、やがて孫の名和顕興の代に九州へと活動の場を移し、肥後八代に土着。南北朝終結後も滅亡することなく明治維新を迎える。
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最終更新:2024/04/19(金) 14:00
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