団忠正 単語


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ダンタダマサ

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団忠正(だん・ただまさ ?~1582)とは、戦国時代安土桃山時代の武将である。
織田信長信忠に仕えて、甲州征伐で軍功を挙げたが、本能寺の変で討死にした。

概要

一言でいうと一緒に行動をしていた森長可などと同じく戦闘狂武闘の武将である。

なお元は梶原姓を名乗っていた。さらに諱は忠正のほかに忠直、忠など多く伝わる。また通称の八、平八郎でも呼ばれていたようだ。梶原氏はかつて源頼朝に仕えて権勢を誇った梶原景時などを輩出した武である。忠正の系は時の三男茂の系統とされている。
諸説あるが、同じく本能寺の変で亡くなったとされている梶原久は子かあるいは戚の関係であったとされている。

彼の若い頃については不明な点が多く、死ぬ約4年前の1578天正6)年になってようやく初めて史料に出てくる。
初めは信長(武芸に秀でた者が集められるエリート集団のようなもの)であったようだが、時が経つにつれ信忠の側近の立場に代わっていった。

彼の人生で一番の働きがあったのはなんといっても甲州征伐である。
森長可とともに武田を攻める信忠軍団の先鋒を務め、飯田・高遠などのを落としていった。
信忠軍団は尾衆、美濃衆に分かれており、忠正は尾衆、長可は美濃衆であったとされる。

この際、戦意が勝りすぎた忠正・長可は兵を前進させを撃ちかけるなどの軍規違反を犯す。
それを軍監河尻秀隆の報告により信長に叱責されている。
だが、居などの重い処分などは受けず、口頭注意などの軽い処分で済んでいる。やはり長可ともども信長が気に入っていた武将だったのだろう。まぁ9日後にまた同じ軍規違反するんだが
この軍規違反について信長は忠正・長可を「わかきもの」と称している。

また武田滅亡後の上野侵攻でも先鋒部隊を務めたり、信濃で発生した一に包囲された稲葉貞通稲葉一鉄息子)の救援に出したりしている。

甲州征伐の褒賞で甲斐に移封された河尻秀隆の旧領岩村5万石と岩村を手に入れる。

そして、1582(正10)年6月本能寺の変が発生。二条御所にて信忠とともに明智軍と戦い、討死にした。

現在、生年が分かっていないため享年は不明。ただ「わかきもの」と同じく称された長可が1558年生まれのため、おそらく同じくらいの年齢であったと推測されている。また森蘭丸(成利)とも個人的な交友があったとされている。

忠正が手に入れた岩村は、彼の死後、信濃から撤退してきた森長可が手に入れた。(ただしこれは本能寺の変直後、岩村に返り咲こうとした遠山友忠から長可がを守ったともいわれる。)


子に兵衛という男子がいたそうだが忠正死亡後の詳細は不明である。

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