与四郎。与兵衛尉。肥前守は史料としては『武徳編年集成』という遥か後世の編纂物に1通だけ登場するに過ぎず、谷口克広は実際に名乗った息子と混同されて伝わったとしている。「鎮吉」という諱も当時の史料には確認されない。
尾張国愛知郡岩崎村の出身と言われている。織田信秀に仕え、小豆坂の戦いでわずか16歳で敵将を討ち取った。清州の守護代家の家臣「河尻与一重俊」の同族であったともいわれるが、詳細は不明。
『信長公記』によると織田信勝殺害の実行者が彼だったとされる。以後織田信長の馬廻となり、黒母衣衆の筆頭となった。以後伊勢大河内攻めに「尺限廻番衆」として従軍。姉川の戦いでは佐和山の抑えとして彦根山に出陣し、戦後丹羽長秀とともに佐和山城を攻めた。
馬廻ではあったものの、小部隊を率いて方々の手伝いに回され、あちこちの戦いで活躍した。やがて織田信忠軍団が形成されると、それに所属することとなる。東濃方面を担当し、岩村城を攻略。信長は老将の秀隆に大将の織田信忠、先鋒の森長可、団忠正を制御するよう命じている。
やがて1582年に武田勝頼が滅亡すると、穴山信君の領地を除いて代わりに信濃国諏訪郡が与えられたものの、甲斐の国主となった。ところが、ここで本能寺の変が起きてしまう。武田氏の残党が蜂起し、一揆勢に襲われて殺されてしまう最期を迎えた。
彼の息子・河尻秀長はやがて豊臣秀吉の下で大名として復帰するが、関ヶ原の戦いで西軍として討ち死にし、以後旗本として命脈を保った。
軍事能力がやや高く、ある程度層が厚くなるまでは活躍の機会も多い。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 70 | 戦闘 | 72 | 智謀 | 28 | 政治 | 33 | 野望 | 50 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 156 | 智才 | 88 | 政才 | 66 | 魅力 | 61 | 野望 | 51 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 78 | 智謀 | 48 | 政治 | 33 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 45 | 戦闘 | 68 | 智謀 | 27 | 政治 | 26 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 56 | 智謀 | 19 | 政治 | 13 | 野望 | 60 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 58 | 知略 | 19 | 政治 | 14 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 57 | 知略 | 19 | 政治 | 15 | 教養 | 22 | ||||||
| 革新 | 統率 | 63 | 武勇 | 74 | 知略 | 22 | 政治 | 17 | ||||||
| 天道 | 統率 | 63 | 武勇 | 74 | 知略 | 22 | 政治 | 17 | ||||||
| 創造 | 統率 | 60 | 武勇 | 70 | 知略 | 56 | 政治 | 61 | ||||||
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最終更新:2025/12/06(土) 04:00
最終更新:2025/12/06(土) 03:00
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