天保9年(1838年)土佐の農家に生まれる。別名寺内新左衛門。生年は天保7年との説もある。
河田小龍の門人になり、学問や絵画を学ぶ。その後家業の焼き接ぎの修行のため江戸に赴く。
文久3年(1863年)江戸滞在時に坂本龍馬の誘いで望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと同時期に勝海舟の門人になる。
12月、藩命で帰国を命じられたが坂本龍馬らと脱藩。元治元年(1864年)5月に開設した神戸海軍操練所では観光丸の乗組員になる。
元治元年(1864年)11月、勝が罷免され失脚すると近藤長次郎、千屋寅之助、高松太郎と薩摩藩邸に匿われ鹿児島に渡海。社中(亀山社中)の初期メンバーになる。
慶応2年(1866年)1月の薩長同盟締結の際、坂本と上京して会議に同席。
慶応3年(1867年)4月、社中が海援隊に改称されてからも引き続き在籍。海援隊の業務に携わる。
すぐ顔が赤くなる癖があり、坂本から「赤づら馬之助」と呼ばれ「君は男振りがいいから女が惚れる。オレは男振りは悪いがやっぱり惚れる」とからかっていたという逸話を後年お龍が回想している。
海援隊解散後は浦賀の海軍に出仕し、中尉に昇進。引退後長崎で暮らし、明治19年(1886年)死去。
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最終更新:2025/12/13(土) 22:00
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