「榊原清政」(さかきばら・きよまさ 1546年~1607年)とは、戦国時代~江戸時代の武将である。徳川四天王・榊原康政の兄。
子孫は交代寄合として東照大権現こと徳川家康を祀る久能山東照宮(静岡県)を守る役目を代々担った。
三河の国人、榊原長政の長男。弟の榊原康政、妹たちがいる。
父親の死去により家督を継いだ清政は、三河の有力者である酒井忠尚に従っていた。
1563年に徳川家と三河一向一揆が戦いを始めると、酒井忠尚は一揆に味方して指導者を務めた。
清政も一揆に参加し、家康の小姓を務める弟の康政や叔父とは敵味方になった。
戦後、酒井忠尚は駿河へ逃亡。清政は徳川家に仕えて、家康の息子で当時まだ赤子だった徳川信康の傅役(教育係)に抜擢された。上司や同僚は石川数正、平岩親吉など。
1570年、家康は遠江浜松城へ居城を移した。岡崎城は徳川信康(この時10歳)が城主となり、榊原清政たちは側近として信康を支えた。
1579年、家康の命令により徳川信康は身柄を拘束され、遠江二俣城に移されて切腹した。
清政は謹慎、あるいは岡崎城から逃亡し、弟の庇護を受けた。榊原康政は、徳川信康の小姓だった植村家次も匿っている。
1590年、徳川家の関東移封に伴い榊原康政が上野館林の大名になると、清政と植村家次は榊原家の領地に移住した。
その後の清政は、家康から仕官の要請を受けたが、病気を理由に断っている。
しかし1606年に弟の榊原康政が亡くなると家康の要請を断り切れなくなったのか、清政は再仕官して翌年には駿河久能山城の城代を務めるほど重用された。
※駿河を治めた家康は久能山城を重要視していた。
再就職した榊原清政が真先に行ったのは、徳川信康の供養だった。
清政の侍女と元同僚の平岩親吉が、駿河江浄寺の境内に徳川信康の遺髪を埋めて供養を行い、清政は供養塔を建てた。
清政はその後、病気が悪化して寝たきりになってしまう。
家康は自ら清政を見舞い、清政の息子には看病に専念するようにと命じた。
(息子に仕えて供養もしてくれた忠臣に対する家康の配慮だが、意地の悪い見方をすれば、都合の悪い記録や遺言を清政が残さないようにと、清政やその子供たちを厚遇することで釘を差したのかもしれない)
1607年、榊原清政は病で亡くなった。
家督は長男が病弱だったので、次男の榊原清久が継いだ。(長男の子は別家を創設した)
徳川家康は死後に神となり崇められて江戸時代250年の泰平を守護し、榊原家が守り続けた久能山東照宮は現在も存続している。
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最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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