榊原康政 単語

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サカキバラヤスマサ

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「榊原康政」さかきばら・やすまさ 1548~1606)とは、戦国武将である。

嫡男に、外祖大須賀康高へ養子に行った上総久留里(後に遠江横須賀)の大須賀忠政

次男に、関ヶ原・上田合戦に康政と一緒に参戦するなどしたが、に先立ち20歳の若さ折した榊原忠長

三男に、康政同様に武勇に優れたが、大坂の陣での戦で腫物が悪化して死んだ上野館林第二代榊原康勝らがいる。

徳川四天王として挙げられるうちの一人。ただし四天王の他3名、特に本多忠勝井伊直政べると逸話の々しさに乏しい印はあり、小説ドラマゲームなどの戦国武将を扱ったフィクション作品において立つ形で登場することは少ない。ニコニコ大百科でも本記事は徳川四天王中で最後に作成されている。

概要

1548年に酒井忠次叔父と言われる酒井忠尚配下の榊原長政の次男として生まれる。榊原清政

1560年の桶狭間の戦いの前後に松平元康(後の下人徳川家康)に見出されて小姓となる。

1563年の三河一向一揆において武功をあげて家康の「康」の字を貰う。

1570年のの戦いでは奇襲部隊として朝倉軍の右翼深くを側面攻撃、朝倉軍は総崩れとなり、勝利のきっかけを作る。

以後も家康の側近として三方ヶ原の戦い長篠の戦いなどに参戦している。また、明智光秀が起こした本能寺の変の発生後の家康賀越えにも同行していた。

1584年には山崎の戦い明智光秀を、賤ヶ岳の戦い柴田勝家を討ち信長の後継者として振舞っていた秀吉家康織田きっての駄な子織田信雄が対立、小牧・長久手の戦いに至る。このとき康政は秀吉を非難する文を書いておりそれを見て秀吉は大激怒し康政の首に10万石もの賞を懸けられている(文内容は後述)

小牧・長久手の戦いの詳細は省くが秀吉家康は和議を結び家康の次男の義丸(後の結城秀康)を養子として差し出した。

1590年には小田原征伐が起きこれに先手として参加。

同年に家康関東に移封されると関東総奉行となり本多正信らを監督江戸城の修築などを務めた。

1600年に関ヶ原の戦いがおきると徳川秀忠の軍監として従軍したが例の一族真田昌幸真田信繁真田幸村子に謀られ肝心な対石田三成戦に遅参するという失態をするが康政らのとりなしで事なきを得た。

1606年、館林で死去する。59歳だった。

現在榊原康政に縁のある愛知県豊田市群馬県館林市兵庫県姫路市新潟県上越市では「榊原サミット」なる行事が開かれていたりする。康政ファンは一度足を運んでみてはいかがだろうか?

秀吉を激怒させた檄文

小牧・長久手の戦いにおいて康政は至る所に

「それ筑前は野人の子。前の従卒。君恩忘れた悪逆の徒なり。」

ボロクソに書いた高札をばらまいた。結果秀吉の眼にとまり康政は賞首となった。

和議後、秀吉の性格と家康のとりなしもあってか康政は許されて「従五位下」と「式部大輔」に叙任され「豊臣姓」まで貰い、秀吉の勧めで康政の首の賞10万石と同じ館林10万石を貰う。

榊原康政、家康に後事を託す?

1568年、遠州の堀川を攻め取ろうと攻め入った榊原康政。散々戦って二カ所に深手を負い、の息となってしまった。康政の傷を見た家康はこんな深手を負ってしまっては助からないだろうと思い康政に

家康「後事に思うことがあればなんなりと申せ」

と言った。死期を悟った康政は家康

康政「この度、配下の奈・中島の両名は活躍していたので恩賞をお与えて下さい。それ以外に思い残すことはありません」

と言ったので直ちに奈・中島を呼んで感状を授けた。

さて、思い残すことがくなった康政、このまま死ぬと思われたがなんと奇跡的に回復した。(どこの日本陸軍のリアル異能生存体だよ)

康政、死して榊原家の危機を救う

前述にも書いたが関ヶ原の際に遅参して怒られた徳川秀忠。それを家康にとりなしたのが榊原康政である。これが秀忠はよほど嬉しかったらしい。秀忠の推しもあり関ヶ原の論功行賞で水戸25万石を与えようとしたらしい。しかし康政

康政「関ヶ原で秀忠様が遅参した責任があり加増なんて依怙の沙汰であり水戸よりも江戸から遠いから嫌」(あれ?後者から本音臭が・・・・)

と言い固辞した。これを聞いた家康息子同様に嬉しかったらしく康政に

「徳あらん限り、榊原あらん限り、反逆は格別、外の不調法では、長く見棄てはしない」

と書いた文を康政にあげたのである。この文が榊原を2度の危機から救うことになる。

1度危機は康政死後にすぐおきた。康政の後を継いでいた榊原康勝が大坂で痔が原因で26歳で継嗣く死去しまうのである。このため榊原氏は断絶・易の危機の陥る。しかし恩返ししたい秀忠と康政の系統が絶えるのを嫌がった家康により易せずに康政の長男大須賀忠政の長男で康政の孫の榊原忠次に跡を継ぐことを許可した。のちに播磨姫路15万石に栄転している。なお榊原忠次が榊原氏を継いだ為に大須賀氏は断絶している。(ちなみに康勝には亡くなる前に勝政という子供がいたが、榊原家老三人が存在を抹消してしまった過去がある。その勝政の系統が後に旗本に取り立てられて、本家に養子を送り、本家断絶の危機を救っている。後述の政岑も勝政の子孫である。)

2度危機徳川吉宗の時代に移る。このときの播磨姫路第三代榊原政岑(まさみね)といい吉宗が出していた倹約華麗にスルーして遊三昧だった。どのような遊だったのかというと手な江戸城大手門を警備、吉原でいつもドンチャン騒ぎ、吉原の代々襲名される有名な遊女の6代高尾太夫を数千両で身請け、その身請けした高尾太夫の為にこれまた数千両のを懸けて宴を開いたりした。

この行動によりとうとう吉宗激怒榊原易しようとしたのだが、その危機に政岑は康政が「家康」から貰った文を幕府に提出した。これにより吉宗榊原易出来ずに石高は変わらず越後高田15万石に移封という軽い処分で済ませた。これに懲りたのか政岑は高田に移ってから人が変わったかのように倹約に務め、政の再建、細工の講習会を開いて副業を奨励したりなどの政務に励んだが1年後に31歳で死去している。

補足

信長の野望シリーズにおける、榊原康政の値の一覧。武勇、統率はかなり優秀。知略も創造で高く設定された。政治…もっと高くなりませんかね?コーエーさん。

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 80 政治 76 65 野望 61
武将風雲録(S1) 戦闘 79 政治 52 68 野望 64 教養 65
覇王 采配 85 戦闘 82 智謀 44 政治 63 野望 64
戦才 168(A) 智才 118(B) 政才 136(B) 83 野望 74
将星 戦闘 84 智謀 67 政治 63
烈風 采配 80 戦闘 83 智謀 56 政治 59
世記 采配 78 智謀 51 政治 53 野望 53
統率 78 知略 44 政治 45
下創世 統率 78 知略 45 政治 41 教養 60
革新 統率 90 武勇 83 知略 51 政治 46
統率 94 武勇 86 知略 51 政治 46
創造 統率 84 武勇 85 知略 73 政治 49

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