永井英明 単語

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永井英明(ながい ひであき)とは、棋界の大功労者である。有職読みでえいめいと呼称されることもある。
近代将棋誌創刊編集長、NHK杯テレビ将棋トーナメント2代目会者・聞き手、産経新聞嘱託の将棋観戦記者などを務めた。元奨励会員。

ニコニコにおいては、NHK杯大盤解説での物穏やかな聞き手役として有名。
プロ棋士がそらんじた難しい読み筋を時に大盤へ並べて見せたり、アマ側の視点から素人筋を提言し解説を引き出すなど、棋士お茶の間との渡しにした仕事ぶりから、永世聞き手名人敬称される。

略歴

1926(大正15)年、東京都に生まれる。

1946(昭和21)年に奨励へ入会。しばらくのち退会。
本人の言によれば、当時の奨励会入会する子供が少なく(師匠について修行する徒制度の慣習が残っていた)、あまり強くなくても入会できたとのこと。

1949(昭和24)夏ごろから新雑誌立ち上げを志し、原稿依頼に東奔西走する。
木村義雄一四世名人升田幸三実力制第四代名人大山康晴十五世名人(肩書はいずれものちに襲名、以下同じ)ら、一流棋士との交流はこの時から始まる。
特に大山康晴とは長く信頼関係を結び、永井が送った当時の手紙を何十年も大事に保管しておく程の間柄となった。

1950(昭和25)年3月刊誌・近代将棋を創刊。定価50円。
木村は若くして起業した永井を高く評価し、掛け研究を執筆した上、創刊間もなくてお金が要るんだから、と原稿料を受け取らなかった。
また永井が販路営業のため北海道に訪れた際には、同じく札幌将棋の催しに出ていた木村自ら北海道棋界の有力者へ紹介するなど、好意的に応援し続けた。

1974昭和49)年、将棋会館建設の資金集めとして企業挨拶回りに出た大山を自費で追いかける。
二人で方々に頭を下げて支援の確約を取り付けた。

1980(昭和55)年、近代将棋創刊30周年を記念して「大山十五世名と将棋の旅」と題する旅を企画。
多数の棋士償で同行して参加者を盛り上げてくれたため、この企画は毎年恒例となる程の大盛況を見せる。
同年、福岡から上京してきた中田功少年大山と引き合わせ、30年ぶりの大山門下生誕生に一役買った。
中田少年永井宅に下宿しながら奨励会へ通い、6年後に四段へ昇段してプロ棋士となった。

1981(昭和56)年から1990(平成2)年までNHK杯テレビ将棋トーナメン司会者・聞き手役を務める。
頭の回転が速いプロ棋士たちの思考に対し、博識を以ってわかりやすくお茶の間へ伝える名バイプレイヤーぶりで好評を得る。
また畏怖の対ですらあった大名人大山康晴や、二上達也森雞二ら各時代の個性棋士とも良好な関係を築き、素人観に立って筋悪な手を示しなぜ駄なのかを解説してもらうなど、丁寧な番組作りに貢献した。

1994(平成6)年、将棋の普及興に功労した者へ贈られる大山康晴賞が新設され、その第1回受賞者となる。
同年から2001年まで産経新聞上にて棋聖戦の観戦記を執筆。

2007(平成19)年、盤寿(81歳)を祝う会が催される。米長邦雄将棋連盟会長を始めとして多数の棋士、さらには政財界のお歴々が集まり永井の功績を讃えた。
当日付で日本将棋連盟よりアマチュア八段(最高位)の免状が贈呈される。

2008平成20)年、近代将棋休刊。
最盛期は10万部を数える一大専門誌であったが、将棋ジャーナル廃刊に伴い一部の連載を引き継いだことなど、その心優しさがとなり慢性赤字状態で終わりを迎えることとなった。

2012平成24)年9月24日、胆管がんのため逝去。享年86。
葬儀9月29日東京都の代々斎場で営まれた。

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