沼田顕泰 単語

ヌマタアキヤス

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沼田顕泰(ぬまた・あきやす 生年不詳)とは、上野戦国武将である。沼田の子。沼田秀、沼田義泰。子に沼田憲泰、赤見綱泰、沼田朝憲、沼田義がいる。万斎(まんきさい)と号す。

ここでは彼の子供たちについても記述する。

生涯

沼田氏は関東管領・山内上杉に仕えた上州八のひとつに称された一族。(小幡氏・倉氏・安中氏・倉賀野氏・桐生氏・横瀬由良氏・山上氏・沼田氏)

1532年、3年をかけて築した沼田完成し、それまで居住していた幕岩城から拠点を移した。この沼田は以後北関東の要衝として重要視され、上杉武田・北条そして真田による争奪戦が長きに渡って繰り広げられる事になる。

領国動揺、家中内紛

1552年に武蔵の御嶽が落し、上杉憲政の本拠・平井上野)が北条氏の脅威に直接されることとなる。山内上杉臣だった伊勢崎の赤石・那波宗俊や館林井照康は北条方に寝返り前線で活発に侵略し、西上野山内上杉方を崩していった。小幡重は北条氏に寝返ったのちに武田氏に寝返っている。

遅くとも1558年までには政が越後へ亡命し、北上野の沼田氏は北条氏の勢に怯えることとなる。また、北は越後長尾氏の領土とほぼ接しており、北条につくか長尾につくかで中は分裂した。

このころの顕泰は既に長男・沼田憲泰に督を譲っていたが、泰は北条方につく事をする。一方の顕泰は旧山内上杉の旧恩を裏切ることはできないと考え、長尾景虎を頼った上杉憲政に義理立てし長尾方につくと表明した。こうして沼田氏は内紛状態に陥ったが、顕泰は長尾方への一本化を図るため、和と称して泰を謀殺した。

かしこの行いは結局北条氏康沼田攻めの口実を与えることとなり、内紛は助を得た北条方が巻き返して沼田は北条に降、顕泰は越後に逃亡したという。

沼田奪回、再度の内紛

沼田には北条康元(北条綱成の次男。別名・北条氏秀)が入して沼田康元を名乗っていたが、1560年5月長尾景虎の北条討伐に従軍した顕泰は沼田を奪還することに成功する。
(※異説として顕泰は越後に逃亡することなく北条に降しており、ここで更に長尾に降したとする話もある)

ただし、関東進出の重要拠点である沼田長尾上杉)氏の直轄地とされ、沼田氏のは抑えられる事になる。顕泰は天神川場とも)に移って隠居した。正室の子である三男・沼田朝憲が督を継いだ。

その後1569年に越相同盟が結ばれて上杉・北条の争いは一段落する。ところがこの頃の顕泰は、側室である金子泰清のとも)の子である四男・沼田義を当にしようと考え、泰清と共に1569年にを謀殺した。これにより沼田氏の内紛・第二章が幕を開けた。結局臣らに領地を追われ、義ともども名氏を頼り会津へ逃亡したという。(沼田氏と名氏はともに三浦氏の一族にあたる)
ただし、この出来事は江戸時代初めに真田によって書かれた「加沢記」が初出で、この時点では既に滅亡しているはずの厩長野氏が登場したりと矛盾も多い。先述の亡命後の内紛と混同された可性もあり。

1560年の沼田奪取以降の動向は不明瞭で、会津へ落ち延びた後の消息も不明である。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける沼田顕泰の力一覧。

中内紛を引き起こした人物とあってか、微妙値である。「創造」の武将名鑑を見ると戦国群雄伝に登場していることになっているが…出てないじゃないですか!(泣) 息子の赤見綱泰と混同されてしまったと推測される。
なお蒼天録以降の近年の作品における生年設定は(1510 ~ 1574)。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 116(B) 智才 118(B) 政才 130(B) 52 野望 67
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 30 戦闘 45 智謀 46 政治 39
世紀 采配 31 智謀 36 政治 31 野望 73
蒼天録 統率 40 知略 44 政治 53
下創世 統率 40 知略 44 政治 54 教養 42
革新 統率 45 武勇 36 知略 49 政治 60
統率 45 武勇 36 知略 49 政治 60
創造 統率 45 武勇 47 知略 51 政治 59

長男

沼田憲泰(ぬまた・のりやす ? ~ 1558)とは、上野戦国武将である。沼田顕泰の長男

君・上杉憲政より一字を与えられた。長尾景春を娶ったとされているが、そもそもの正室(泰の)が長尾景春であり、自身も1514年にしているので年代的にもありえない。もし白井長尾氏を妻としているのならば、の孫・長尾景誠か、の跡を継いだ長尾を娶ったのではないかと思われる。

より督を譲られていたが、上杉憲政が越後に逃れた後、中は上杉憲政を擁する長尾景虎につくか、上野侵略で勢いに乗る北条氏康につくかに分かれて紛糾する。
泰は北条方についたが、長尾方についた期解決を図った事で、和と騙され謀殺されたという。

次男

赤見綱泰(あかみ・つなやす ? ~ 1586)とは、上野戦国武将である。沼田顕泰の次男。三男とするものもある。沼田六郎見山守と称した。

下野佐野の土(か? 後述)見氏の督を継いだ。1582年、北条氏直に降沼田と岩櫃の中間に築かれた拠点・中山を任せられるが、1586年に真田氏に攻められ落・討死した。

赤見氏

見氏は下野戦国大名佐野氏の臣。居である現在栃木県佐野市内に存在していた。佐野氏の居唐沢はここより6km東にある。佐野一族のひとつ桐生氏の領土にも接しており、この関係で北条氏に攻められたと思われる。(※佐野氏は1585年の佐野宗綱の戦死がきっかけで内紛を起こした末、北条氏康の子が佐野氏忠として督を継ぎ北条方となる)

「綱」の一字は佐野氏の通字であるので、佐野の当から拝領した物に見えるが、佐野方の史料には綱泰(山守)の名前が出てこない。

戦国時代見氏の動向としては、賀守が1559年に佐野泰綱に反抗したためにを攻められ、常陸へ逃亡している。泰綱が1560年に死去した後に和して復帰。その後、見綱高は佐野宗綱の討死後に反北条をして佐野房綱徳寺了伯)と共に出奔、房綱の佐野復帰を助けたとされる。

赤見綱泰は佐野宗綱が討死するよりも前に北条に降しているので、なにか変である。

実はこれとは別に、上野安中の配下にも見氏がおり、また安中忠政の妻は沼田顕泰のである。どうやら綱泰が継いだのは佐野見氏ではなくこちらのようで、安中氏→武田氏と所属を変えた後、武田滅亡後に北条に降り、対真田の最前線を担当していたようだ。

信長の野望

戦国群雄伝ではを差し置いて「見山守」の名前で登場している。が、以後登場していない。

軍事 内政
戦国群雄伝(S2) 戦闘 49 政治 30 23 野望 36

三男

沼田朝憲(ぬまた・とものり ? ~ 1569)とは、上野戦国武将である。沼田顕泰の三男。

1560年5月長尾景虎の北条征伐に従軍し、沼田攻めなどで功をあげて旧領の奪還を果たす(が、沼田には長尾/上杉代が置かれる事になり、彼の立場がどの程度だったのかは不明)。

により督を譲られ当となっていたが、異沼田義の督を望む継金子泰清の)の要望により、と泰清によって謀殺された。

ただ、この件に関しては1561年以前の出来事とも言われ、よくわかっていない。もまた北条であり、長・沼田憲泰ともども謀殺されたとも。

関連項目

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掲示板

  • 4 0

    2016/10/02(日) 06:52:08 ID: gkQso0+jPX

    自分が確認したまでは登場しているというのは確認できませんでした。

    どうも武将名鑑はミスっているのもあるそうで、香川香川がいい例なのですが、香川は当時『香川』と間違われていました。書になると判別がつきにくいため。
    蒼天録PKでは元を之に変えての元を登場させてましたが、下創世でまた之から元に元に戻してます。
    そして創造の武将名鑑を見ると元の顔グラを見ると元時代の之のグラが載ってしまっています。

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  • 5 ななしのよっしん

    2016/10/02(日) 12:22:20 ID: vrRNha/iON

    >>4
    経緯はなんとなく分かりましたけど、記事だけ見ても何の話だか分からないって事が問題だと思ったのです

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  • 6 ななしのよっしん

    2016/10/12(水) 15:07:58 ID: vrRNha/iON

    ところで「息子たちについても記述する」と書いてありますけど
    沼田義については書かないんでしょうか?

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