石田光彦 単語

イシダミツヒコ

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石田光彦(いしだ みつひこ)とは、元プロ野球選手である。故人

概要

1915年10月25日生まれ。山口県出身。

中学校に進学。その後、軟式野球東京リーガ倶楽部プレー

1936年阪急軍の入団テストに合格し、同球団に入団。このテスト重松通雄も合格し入団している。

1936年シーズンから本格的に起用されるようになり、18試合登板して7勝5敗、防御率1.41を記録

1937年7月東京ネタース戦で史上3人ノーヒットノーランを達成。

1940年森弘太郎に次ぐ投手として活躍すると、8月にはライオン戦で2度ノーヒットノーラン達成。最終的には43試合登板して、16勝13敗、防御率1.68と好成績を残した。

1941年南海軍に移籍。

南海では1941年に6勝を挙げて防御率0.96を記録したが、翌1942年は6勝12敗と負け越し。

1943年大和軍へ移籍。人員不足のチーム内で37試合登板して11賞をあげるなど奮闘。

その後、第二次世界大戦で倭軍を退団したが、終戦後の1946年ゴールドスターに入団し球界復帰。ゴールドスターでは開幕投手を務め、12勝を挙げたが、同年限りで現役を引退

退団後、1948年都市対抗野球大会投手として出場したが、その後は球界から離れていたようである。

1980年、死去。

人物・エピソード

人を喰ったような動作で打者を惑し、手玉に取っていった右腕。全く投球動作に入らずスコアボードを見つめたり、打者に突然背を向けて投げ出したり、投法を変更したり、キリスト教徒でもないのにマウンドで十字を切ったりと、とにかく変則的なマウンドさばきから、「チャップリン投法」「十字架投法」などと呼ばれた。カーブシュートを持ち球としていたようである。

経歴については東京リーガ倶楽部所属以前の詳細な経歴は不明。NPB公式には豊中出身となっているが、豊中出身で1学年上のはずの戸倉勝城が「そんな選手はいなかった」と否定するなど、が多い。

通算成績

投手成績

通算:9年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 300 108 17 91 93 --- --- .495 1774.1 948 715 651 485 2.46

獲得タイトル・表彰・記録

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