甲斐源氏の子孫の一つで、若狭武田氏の重臣の一人。駿河守を称し、出家していたため通称「駿河入道宗全」。若狭西部の大飯郡を拠点とした有力者だったが、もはや謀反を繰り返す存在であった。
逸見という名字は武田信義の双子の兄などに存在する甲斐源氏の証であり、おそらく若狭武田氏の支族の一つでまだ安芸にいたころから付き従っていた。以後も応仁の乱で武田国信の重臣として逸見入道が活躍し、その討ち死に主君が遁世を図ろうとしたとまで言われている。しかし、武田家四老とまで言われ、大飯郡高浜城に構えたこの一族も、逸見昌経の代にはもはや反抗的な存在と化していた。
『若狭国志』によると若狭内で国衆の武藤友益と争っていたようで、その上もはや主君である武田義統にすら反逆する存在であった。現に永禄3年(1560年)に粟屋勝久とともに、武田義統に反乱を起こしている。
ただし、以後は対朝倉氏の最前線にいた粟屋勝久に比べると、何をやっていたかいまひとつわからない。織田信長の上洛以降若狭の領主たちは傘下に入っていくが、元亀年間までにはすでに逸見昌経もその中にいたことまでしかわからないのである。とはいえ天正3年(1575年)には武田元明らとともに織田信長に謁見している。
どうやら逸見氏は織田信長の傘下で若狭の水軍を率いたようで、逸見河内守が越前の攻撃に加わっている。以後、天正9年(1581年)の馬揃にもおそらく加わったのではないかということしか言えない。『若狭国志』によれば、それから1か月もしないその年の3月6日に亡くなったようだ。事情は不明だが彼の領地を継ぐ後継者はいなかったようで、『信長公記』によれば翌月には武田元明と溝口秀勝に分配された。
粟屋勝久らに比べると登場頻度がさらに少なかったが、創造PKにてようやく定着することとなった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 46 | 戦闘 | 56 | 智謀 | 51 | 政治 | 52 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 34 | 智謀 | 39 | 政治 | 38 | 野望 | 49 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 43 | 知略 | 59 | 政治 | 51 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | 52 | 武勇 | 60 | 知略 | 62 | 政治 | 59 |
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最終更新:2024/04/24(水) 19:00
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