阿部定事件(あべさだじけん)とは、1936年5月18日に発生した殺人事件である。
阿部定(1905~没年不詳)という女性が、不倫相手の石田吉蔵を窒息プレイの末に絞め殺した事件。更に定は吉蔵の男性器を切り取って持ち運んでいた。
サディズムとフェチズムの倒錯した殺人事件として当時から非常に有名で、作品化されるなどしたことで後世にも知られている。
定は畳屋の末っ子として生まれた。そのため親から可愛がられ、三味線などの芸事を習って育った。だが負に転じて定は不良少女と化していった。
男遊びが絶えないのを失望した父により、17歳の時に女衒に売られてしまう。初め芸者となるが、三味線くらいしか宴会芸を持たない定はすぐに性交渉の相手にさせられ、転落していった。結局、25歳くらいまでそうした仕事をしていた。
だが、1935年に市会議員・大宮五郎と知り合った事で人生が変わる。大宮から説得を受けた定は、まともな道を歩むよう諭され、その第一歩として中野の料亭・吉田屋を紹介してもらった。ここでは「田中加代」の変名を使っていた。
しかし、吉田屋の主人・石田吉蔵(いしだきちぞう)とすぐに不倫関係となった定は、吉蔵とふたりで店を飛び出した。
吉蔵は性行為の際に、しばしば首を絞めることを要求した。いわゆる窒息プレイで快感を得ていたのである。そして逃亡中の1936年5月18日、吉蔵は「自分が寝ている間、首を絞めてくれ」「今度は止めてはいけない」と言って眠りについた。定は冗談かと思いつつも、言われるがまま、眠っている吉蔵を絞殺した。
その後、定は吉蔵の陰茎と睾丸を包丁で切り取った。更にシーツには血で「定吉二人きり」、吉蔵の左の太ももにも「定吉二人」と書き、吉蔵の左腕にも包丁で「定」と刻んだ。そして宿の者には「吉蔵は具合が悪くて寝ている、午後になるまで起こさないで」と伝え、定は逃走した。
あまりにも衝撃的なこの事件は翌日新聞で国民の知るところとなり、大パニックが起こった。当時は日本が戦争へと進みつつあり閉塞的な空気が漂っていただけに、このニュースの反響はすさまじいものであったという。そんな中、事件から2日経った5月10日、定のもとに警察が現れた。この時定はビールを飲んでいたが、慌てることもなく「あたしがお探しの阿部定ですよ」と言ってのけたという。
定は動機として、定吉を独り占めしたかったからと述べた。性器を持ち歩いたのは定吉と一緒にいる気分になれるから、という理由であった。
出所後は「吉井昌子」の変名で、一般人男性と事実婚の状態にあった。だが「お定本」と呼ばれる、阿部定事件を題材にしたあることないこと書かれた書籍が乱発したため、名誉棄損で訴えて勝訴した。しかしこれで自分が阿部定であることが夫にバレてしまい、関係は破綻した。
以降は堂々と阿部定を名乗り、各地を転々として暮らすようになった。だが1971年に働いていたホテルから失踪すると、以降は消息不明となった。
吉蔵の墓には毎年送り主不明の花が届けられていた。この送り主を定と見る向きもある。しかし1987年ごろをもって花は送られなくなった。
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最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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