佐野宗綱(さの・むねつな 1560 ~ 1585)とは、下野国の戦国大名である。
佐野氏16代当主。父の後を継ぎ、要塞唐沢山城で防衛に努めた戦国大名。
佐野昌綱の子。1574年に父が死去したため家督を継ぐ。父の代より唐沢山城の佐野氏は上杉謙信の激しい攻撃を受けていたが、これを唐沢山城の鉄壁さと宗綱の知略、優秀な家臣たちもあって撃退に成功していた。配下の家臣に鉄砲の供給を命じ、鉄砲を揃えるなど軍備面でも活動した。
佐野氏は初めは北条氏と同盟していたが、やがて叔父・天徳寺宝衍(佐野房綱)の誼もあって織田氏に通じるようになっていく。そのため北条氏照から攻撃を受けるがこれを撃退している。
武田氏滅亡後は滝川一益に仕え、本能寺の変後の神流川の戦いでは滝川方として参戦する。
宗綱は知略に優れていた人物のようで、1584年、北条方だった由良成繁・長尾顕長兄弟を調略することに成功。これをきっかけに秀吉包囲網の一環として沼尻の戦いが起こる。
一方、隣国の長尾顕長とは抗争状態が続いていた。そんな睨みあいの中での1585年1月1日、元日のご挨拶とばかりに宗綱は攻撃を仕掛ける(長尾氏の館林城が北条氏に攻められており、その隙を突いた)。彦馬の戦いである。が、両者とも正月のお休みムードのためか上手くいかない。やがて敵から挑発を受けるとこれに応じて宗綱は大将単騎で突撃、豊島忠治に討たれ戦死してしまった(須花坂の戦い)。己の能力を過信しすぎたための死と言われる。
宗綱には男子がなく、娘だけがいた。この娘を北条氏に娶わせようという親北条派と、佐竹氏より養子を取ろうという反北条派(天徳寺宝衍、山上道及など)で家中は真っ二つに割れる。これは最終的に親北条派の勝利に終わり(というか北条氏が唐沢山城を制圧し)、北条氏康の六男・佐野氏忠が婿養子として家督を継いだ。
だがこれに納得できない宝衍は出奔し、豊臣秀吉へと接近することになる。
なんとも評価しづらい二線級武将。知略に優れていたらしいが、あの最期のために智謀の低い脳筋寄りの能力になっている。創造で久しぶりに大名に復帰した。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
| 覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
| 天翔記 | 戦才 | 134(B) | 智才 | 80(C) | 政才 | 90(B) | 魅力 | 66 | 野望 | 33 | ||||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 53 | 戦闘 | 43 | 智謀 | 41 | 政治 | 46 | ||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 53 | 智謀 | 29 | 政治 | 37 | 野望 | 77 | ||||||||
| 蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 28 | 政治 | 37 | ||||||||||
| 天下創世 | 統率 | 54 | 知略 | 28 | 政治 | 37 | 教養 | 38 | ||||||||
| 革新 | 統率 | 66 | 武勇 | 55 | 知略 | 32 | 政治 | 52 | ||||||||
| 天道 | 統率 | 60 | 武勇 | 75 | 知略 | 28 | 政治 | 60 | ||||||||
| 創造 | 統率 | 58 | 武勇 | 70 | 知略 | 36 | 政治 | 57 | ||||||||
| 大志 | 統率 | 57 | 武勇 | 68 | 知略 | 40 | 内政 | 56 | 外政 | 45 | ||||||
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 04:00
最終更新:2025/12/06(土) 03:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。