神流川の戦いとは、天正10年6月16日(1582年7月5日)から6月19日(同7月8日)にかけて、織田信長が本能寺の変によって敗死した後、織田方の滝川一益と北条氏直・北条氏邦が武蔵国賀美郡周辺で争った戦い。天正壬午の乱における戦闘の1つにも数えられる。戦国時代を通じて関東地方でもっとも大きな野戦とも言われている。
1582年(天正10年)2月に開始された織田家による甲州征伐は、3月11日の武田家滅亡によって終結した。3月23日、滝川一益は織田信長より上野一国と信濃二郡を与えられ、箕輪城に移った。5月には関東支配の本拠を厩橋城に移し、沼田城に滝川益重、松井田城に津田秀政、小諸城に道家正栄を配置した。また一益は人質を差し出せば本領安堵を約束するとして、関東の諸将は続々と従属を誓うようになった。
一方の北条氏は「御館の乱」で武田家と上杉家が甲越同盟を結んだことにより、上野の大部分を武田に支配され、その打開策として織田信長と同盟を結んだものの、甲州征伐での加増は得られず、両者は同盟関係とはいえ、微妙な関係となっていた。おそらく織田家にしてみれば武田と北条が組むことを避けたかっただけの同盟締結で、武田家が滅亡した以上、北条家の機嫌を取る必要性があまりなかったのではないかと思われる。
とはいえ、滝川一益が厩橋城に移った5月に開催した能興行には北条家も参加していることからも、表面上は友好的な同盟関係が保たれていた。
1582年(天正10年)6月2日、織田信長が「本能寺の変」によって明智光秀に討たれると、5日後の6月7日(9日の説もあり)に一益のもとにその報が届いた。一益は滝川益重ら重臣の反対を押し切って「隠したってどうせバレるから」と従属している諸将を集め、信長父子が討たれたことを報告した。また、「急いで京に向かい(信長の次男三男である)信雄・信孝を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ」と上洛の決意を伝えている。
信長が横死したことは北条氏政にも伝わっており、氏政は6月11日付の書状において、引き続き協調関係を継続する旨を一益に伝えた。しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していたと考えられている。
そして一益が京に向かうより早く、6月16日には小田原城の北条氏直、鉢形城主・北条氏邦(氏直の叔父)、そのほか北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の軍勢が上州倉賀野表(群馬県高崎市)に侵攻した。
一益は、1万8千の兵を率いて北条勢を迎え撃ち、18日の初戦には勝利したものの、3倍の兵力差に加え、与力としてあてにしていた関東の諸将が戦闘参加に消極的であったため、翌19日の合戦では北条勢に大敗することになった。その日の夜に一益は倉賀野城を経て厩橋城に退却し、戦死者の供養をおこなったあと、20日には箕輪城を旅立ち、碓氷峠を越えて、小諸城に入った。
当初、木曽義昌は美濃に通じる木曽谷の通過を拒否したが、佐久郡・小県郡の国衆の人質(依田康国や真田昌幸の老母など)を引き渡すことを条件に通過を許可し、一益は7月1日になんとか伊勢長島に帰還した。
東国支配を任されていた一益が不在になり、さらに一益と同様に武田家滅亡後の恩賞として関東に移ってきた北信濃の森長可、南信濃の毛利長秀も領地を放棄してそれぞれ美濃と尾張に帰還しており、甲斐の河尻秀隆にいたっては武田家の遺臣により殺害されたため、織田家は上野のみならず、甲斐・信濃も含め、東国の支配力を失った。
また「神流川の戦い」は、北条家・徳川家・上杉家による空白地帯となった旧武田領のぶん取り合戦、いわゆる「天正壬午の乱」のきっかけにもなった。
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最終更新:2024/05/07(火) 12:00
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