浪岡顕義 単語

ナミオカアキヨシ

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浪岡顕義(なみおか・あきよし 生年不詳・15世紀後半ごろの人)とは、室町時代陸奥人領である。浪北畠4代当。「北畠顕義」とも。

浪岡北畠氏について

南北朝時代初期における南の若き名将・北畠顕家の子孫という。ただし、顕以降の北畠(浪)氏の足取りは不明な点が多い。同じく南に属していた南部氏護を受けて、当初は稗貫現在岩手県中部)に住んでいたが、やがて南部氏が北替えした事もあって津軽地方の浪へと移り住み「浪氏」を称したとされている。

に移った年代は諸説あるが、概ね14世紀後半~15世紀前半のようだ。い段階では顕の子の北畠顕成1373年(正2年)に入部したとするが、いやいやそれは更に2代後の話だとか、顕の子孫ではなく甥にあたる北畠北畠統の業績だとか、ぶっちゃけよくわからないとりあえず、この科内では北畠顕成が浪氏初代」カウントする事にする。

細かい事はともかくとして、国司北畠に連なる由緒ある名とされている。祖・顕鎮守府大将軍に任官されていた経緯から「浪御所」と尊称され、津軽に割拠するそこそこ有力な一勢力となったことは事実である。東(陸奥南部地方)の南部氏と、西(津軽・羽後さらに)の安東氏という二大勢力の緩衝としても機していた。(15世紀中ごろ、津軽の安東氏は南部氏によって追い出されてしまうが)

概要

顕成 ― 顕元 ― 顕邦 ― 顕義、と続いた浪氏4代

は浪顕邦。子は浪岡顕具

それまでの本拠・常館(げんじょうやかた)から移り、新たに浪を築したが、その年代については長年間(1457~1460)、応仁年間(1467~1469)、文明年間(1469~1486)とこれもまた諸説ある……まあとにかく15世紀後半である。今では応仁年間が有力視されている。浪100年の礎を築いた。

補足

年代の関係上、ゲーム信長の野望」に登場した事はい。

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最終更新:2025/12/06(土) 15:00

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