オットー・カリウス(1922年5月27日 - 2015年1月24日)とは、第二次世界大戦中のドイツ国防軍の軍人である。
戦車長として150両以上の戦車を撃破。ミヒャエル・ヴィットマン親衛隊大尉、クルト・クニスペル曹長などと並び優れた戦車エースとして知らている1人である。
経歴
1922年、フランス国境に程近いドイツ西部の都市ツヴァイブリュッケン(Zweibrücken)[1]に生まれる。
1940年にギムナジウム校(大学予科学校)を卒業。1939年に第二次世界大戦が勃発したため、陸軍を志望するが、身体検査で2度不採用。しかし、同年5月にポーゼン(Posen)[2]の第104歩兵補充大隊への入隊が叶う。父は戦車部隊入りに反対していたが、ポーゼンでの歩兵基礎訓練中に戦車部隊へ志願、第7戦車補充大隊(後に第21戦車連隊、対ソ戦前に第20戦車師団へ統合)で装填手としてチェコ製38(t)戦車で戦闘に参加した。
1944年7月22日、「マリナーファの戦い」でアルベルト・ケルシャー曹長と共に2両のティーガーIで、IS-2を10両、及びT-34/85を7両撃破した。 カリウスは1944年7月24日偵察中にソ連兵と遭遇し首や体を数カ所撃たれる重傷を負ったが、3日後の7月27日に535人目の柏葉付騎士鉄十字勲章受章者となる。
負傷から回復した1945年初頭に第512重戦車駆逐大隊のヤークトティーガー中隊の指揮官となる。既に西部戦線は非常に混乱しており戦果は殆ど無く、4月15日にアメリカ軍に降伏する。
戦後は1952年に薬剤師の免許を所得し、1956年から故郷ツヴァイブリュッケンに程近い農村[3]の薬局の経営者となる。1960年の転居に際し、ティーガー戦車に因んで薬局名を「ティーガー・アポテーケ(Tiger-Apotheke)」(虎薬局)と改称した。2011年に薬局を後継者に譲り、非常勤薬剤師となる。
その他
- 著書に『ティーガー戦車隊』(原題:Tiger im Schlamm、英題:Tiger in the Mud)という回顧録がある。また、ヒストリーチャンネルの戦闘するデザイン「ドイツ戦車ティーガー」にティーガーエースとして番組に出演していたりする。
- 宮崎駿が上記回顧録のナルヴァの戦い部分を元にした劇画『泥まみれの虎』を出版するにあたり、家を訪ねカリウス本人と対談している。
- カリウスいわくティーガーの榴弾でも500m程度ならT34は撃破可能だったという。
- ヤークトティーガーの12,8cm砲で家の影に隠れたM4中戦車に向かって射撃した際、砲弾は家を突き抜けM4中戦車を撃破したという逸話がある。
- 攻撃機の襲来ルートで待ち、カリウスの指示でクラーマー伍長が低空でやってきたIL-2に発砲したところ2発目が翼に命中し撃墜した。
- 宮崎駿『泥まみれの虎』で相棒であったアルベルト・ケルシャー曹長のその後は、小林源文の劇画『ザームラント1945』で描かれている。(カルパネトが死んじまった・・・)
- カリウスの砲手であったハインツ・クラーマー軍曹はカリウスが負傷して去った後に戦車長になり1944年12月には敵戦車50輌撃破の功績により騎士字章を受賞している。しかし、1945年1月27日にオストプロイセンのプラウテンでの攻撃の際、彼の搭乗したティーガーが撃破され、重傷を負って病院車で後送される。その際、ノイハウゼンの手前で浸透してきたソ連軍に攻撃され、クラーマー軍曹は行方不明となり戦死と認定されている。
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関連項目
脚注
- *1922年当時はドイツ国(Deutsches Reich)のバイエルン州(Freistaat Bayern)に属していたが、第一次世界大戦後は1930年までフランス軍が進駐していた。現在はドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)のラインラント=プファルツ州(Land Rheinland-Pfalz)に属する郡独立市である。
- *現在はポーランド共和国ヴィエルコポルスカ県に属する都市。1939年のドイツのポーランド侵攻によってドイツに併合されていた。ポーランド語名はポズナニないしポズナン(Poznań)
- *ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)、ラインラント=プファルツ州(Land Rheinland-Pfalz)、クーゼル郡(Landkreis Kusel)に属するヘルシュヴァイラー=ペッタースハイム(Herschweiler-Pettersheim)。ツヴァイブリュッケンからは北に約20kmほど。
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