単語記事: 第一次世界大戦

編集
歴史 このページ歴史についての記事です。 中立的な編集・議論が望ましいです。

第一次世界大戦(World War Ⅰ)とは、1914年~1918年に勃発した人類史上初の世界戦争である。
ここでは1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約締結までを簡潔に記述する。

なお、第二次世界大戦が勃発するまでは、「大戦争Great War)」「世界戦争(World War)」「欧州大戦(War in Europe)」などと呼ばれていた(こういったのことをレトロニムと呼ぶ)。

  概要
  ・前時代との比較
  ・参戦国
    ・オーストリア=ハンガリー帝国
    ・セルビア王国
    ・ドイツ帝国
    ・ロシア帝国
  開戦期
  戦争の終盤(1917年~)
  終戦からベルサイユ体制
  戦争が残したもの
  関連動画
  関連商品

  関連項目

 概要

- 前 時 代 と の 較 -

この戦争は、人類史上初の全世界を巻き込んだ大戦争となった。近代の戦争から現代の戦争への転換点となった戦争でもある。

19世紀に起きた戦争との大きな相違点は、

以上の点から、それまでとは桁違いの死者を出した戦争でもある。19世紀までは一度の戦争で死者が10万人出ることはあまりなかったが、この戦争では900万人くらいの死者が出たといわれる。

- 参 戦  -

連合(協商
イギリスイギリス  フランスフランス  ロシア帝国 ロシア帝国
 イタリア王国イタリア  アメリカ合衆国アメリカ合衆国  セルビア王国セルビア
 大日本帝国大日本帝国
その他多数



V S
中央同盟
ドイツ帝国ドイツ帝国 オスマン帝国オスマン帝国  ブルガリア王国ブルガリア
オーストリア=ハンガリー帝国オーストリアハンガリー帝国
※都合上、国旗名は簡潔な物を使用しています。
  オーストリア=ハンガリー帝国

オーストリアハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されたサラエボ事件を機に戦争を起こす。世界戦争を計画していたわけではないが、結果的に当時のヨーロッパにくすぶっていた火種全てに、火を点ける結果となってしまった。

  セルビア王国

地政学的に火種の尽きない地域バルカン半島にあるだけに、周辺諸ともめることが多かったセルビアは、一部の過激派暴走し隣オーストリアハンガリー帝国皇太子を暗殺してしまう(サラエボ事件)。このことから戦争に参加し一時は滅亡の危機するが、最終的には敵が勝手に他との戦争で負けてくれたため、タナボタ的勝利を収める。

  ドイツ帝国

名宰相ビスマルクを排斥したことで知られるヴィルヘル2世が、領土的野心を持って参戦。40年前の普戦争フランスとの関係がこじれたままだったのに加え、イギリスと制権をめぐって争っていた時期でもあり、これら諸問題を戦争で片付けようと論む。
シュリーフェン・プランと呼ばれる作戦計画に基づき対フランス戦を行おうとする。

  ロシア帝国

になると凍ってしまい使えなくなる港しか持たないロシアにとって、不凍港の獲得は悲願であった。そのため古くから進出をしていたが、当然周囲の々がそれを許すはずもく、過去の計画は全て失敗していた。オーストリアハンガリー帝国戦争を起こした際、これに参加しオーストリアハンガリー帝国(とオスマン帝国)を排除すればへ進出できると考える。

開戦期

サラエボ事件

オーストリアハンガリー帝国の圧に日々さらされる隣の小国セルビアでは、ハプスブルグ率いる帝国への反発を強めていた。そのさなか1914年6月28日帝国皇太子フェルディナントが、当時帝国領であったサラエボ庁舎を訪問した。訪問の理由はあまり明確になっていないが、庁舎へ向かう途中で皇太子夫妻は1度の襲撃を受ける。攻撃は外れ、後ろの爆弾によって吹き飛ばされるも、皇太子夫妻は事であった。しかし庁舎訪問終了後2度の襲撃を受け、夫妻はセルビアテロリストによって射殺されてしまう。これが後にサラエボ事件と呼ばれ、これを機に帝国セルビアへ宣戦を布告した。

戦争の展開

オーストリアハンガリー帝国セルビアの間で戦争が始まると、ロシア帝国セルビアを支持して戦争に参加。ロシアオーストリアハンガリー帝国オスマン帝国を排除してへの進出を論んでいた。

ロシア戦争に参加するとこれに反応してドイツ戦争に参加。ドイツはこの戦争に参加する直接の理由がかったが、様々な領土的野心から戦争に加わったといわれている。

イギリスフランスドイツに宣戦を布告されたため、止むを得ず参加した。オスマン帝国ロシア帝国に挑まれる格好になったため参加。

イタリアオーストリアハンガリー帝国とトリエステ地方及びチロル地方の領土問題でもめていたため、この戦争を好機と捉え参戦。

日本ブルガリアなどその他の々は参戦する直接の理由がかった。しかし諸々の同盟関係の手前、手伝わないわけにも行かず、やや遅れて参戦した。

アメリカは「栄ある孤立」モンロー義を通じて戦争には参加しない方針であったが、ドイツ大西洋で制限潜水艦作戦を実行したため、最終的には参戦した。

この第一次世界大戦の開戦に至る経緯については様々な分析がなされているが、直接の開戦理由ははっきりしていないとも言われている。サラエボ事件はほんの端緒に過ぎず、それまでの欧州の間にあった様々な要因(歴史的要因やナショナリズムの勃もあった)がすべて絡み合い、当事者たちの判断がすべて悪い方向に向かっていったとしか思えないような展開の果てに起きた戦争でもある。いささか極端な意見としてすべては偶然の産物でしかなかったという意見もある。

明らかになっていることを書けば、国家導者達は楽観的で開戦間際まで状況が破滅的であることを理解できなかった(気が付いた時には止める術がなかった)。多間に絡み合うように結ばされた同盟関係は自動的な開戦を生む破にもなった。またな通信手段が電報だったため本導者たちと外交官たちの間には暴走と様々な過誤も生んだ。軍隊導者は自ら、あるいは先達が作り上げた事前戦争計画に拘泥して"自の置かれた外交的立場"などお構いなしに"自動的に"総動員体制へと邁進していったのである。

戦争の長期化

6月末のサラエボ事件に端を発したこの戦争は、クリスマスまでには終わるという楽観論が当初大勢を占めていた。が、その予定は簡単に覆される破になる。

オーストリアセルビアの間で軍が衝突をしたことを受けて、ロシアが参戦を決定。ロシアの参戦を受けてドイツ事前立案されていた戦争計画"シュリーフェン・プラン"にもとづいてロシアが総動員から戦線へ展開する時間差をついて、両面作戦を回避するためもう一方のを接するフランスに対して作戦行動に移る。
この"シュリーフェン・プラン"はベルギー領内を回してフランスパリを包囲するという作戦行動のため、"自動的"に(当時中立宣言をしていた)ベルギーに対して宣戦布告することになる。イギリスはこれを受けて最後通牒をドイツに対して送ることになり、ここに欧州全域を巻き込むだけではなく世界大戦へのが作られることなった(驚くべきかあきれるべきか、ドイツを含め参戦の大半が動員にあたっては鉄道ダイヤを元にして考えていたため、動員を限定することも止める術も持ち得なかった。止めた途端に軍の動員計画だけではなく自経済活動にすら混乱が生じることは自明だったため、軍導者たちにとって動き出した計画はにも止めることが出来なかったのである)。

結果から言えばドイツのシュリーフェン・プランは頓挫した。理由はいろいろあるが小モルトケ良(悪)したせいだという理由がもっぱらだろう。一方には当時の鉄道を中心にした補給網にとらわれていた動員と兵移動スピードでは当初作戦案どおり決行されていたとしてもパリの包囲はならなかっただろうとも言われる。

そして戦場では違うが現れていた。いざ戦闘が始まってみると、突撃した騎兵歩兵が敵の機関銃で皆殺しにされるという悲惨な状況が相次ぎ、旧時代の戦い方がまったく通用しないということを思い知らされる羽となった(フランス軍では伝統的な鮮やかな軍服迷彩に替えるとは何事かという牧歌的意見もあったが、戦場においては単なる手な標にしか過ぎず、大損を出すこととなった)。

対応として東部・西部戦線では互いに塹壕を掘ることなった。特に顕著だったのは西部戦線で、果てはドーバー峡からスイスまで届かんばかりの長い塹壕を掘ることになったが、守備を固めることには成功したものの攻め手に欠け、できることといえば遠くから弾を撃ち込む程度のものだった。着した戦況を打破しようとした結果、攻め込まずに敵を倒せるガス機関銃に耐えつつ前進ができる戦車、塹壕を飛び越えて進める飛行機が史上初めて実戦に投入された。ただしこれらの兵器は当時まだ考案されたばかりのものがほとんどで、決定打と言えるほどのは持たなかった。

戦争の終盤(1917年~)

東部戦線では3年もの間一進一退が続いていたが、ロシアでは戦争の長期化で民の間に不満が高まり、ドイツレーニン革命たちの帰を手伝ったこともあって1917年ロシア革命が起きてしまう。これで戦争どころではなくなったロシア戦争から手を引き、ドイツ帝国とブレスト=リトフスク条約を締結、ウクライナを含むロシアの広範囲の領土をドイツ帝国に割譲した。しかしこの後のドイツ帝国の敗戦に伴いロシアは条約の棄を宣言し、1919年のヴェルサイユ条約で失効した。

ロシア革命によって東部戦線自然消滅。戦西部へ向けられることとなった。西部戦線では戦域になくり巡らされた塹壕によって、攻めることが困難な状況になっており、ドイツでは闊に攻めるよりも補給を断って相手を干上がらせる戦術へと切り替えが進んでいった。もっとも有名なのが制限潜水艦作戦である。「大西洋を航行する船はとりあえず攻撃」という大雑把かつ広範な作戦によって、大西洋を航行する関係な船舶も沈められ、世界経済混乱した。特に戦争特需に沸くアメリカ合衆国の被が大きく、それまで参加予定がなかったアメリカの参戦を招いてしまう。

アメリカの参戦によって、物量面で中央同盟側は圧倒的に劣ることになり、ドイツなどは優位に進めていた戦域が多数あったにも関わらず、最終的には物量が不足すると共に将兵らに厭戦気分が蔓延した。
もが長く続く陰惨な戦いに心を痛めていたのだ。カイザーヴィルヘル二世ドイツの実質的戦争導者でもあったルーデンドルフを更迭したことも厭戦気分を増す結果となる。最後の決定的な出来事はロシアでもそうだったように軍から発生した。
状況の打開をしてドイツは艦隊の出撃を命じようとしたものの、兵たちがこれを自殺行為と判断。命令を拒否し反乱を行う。この反乱事件はく間に全軍でも行われ、次に陸軍までも波及し、ヴィルヘル二世の退位をめる革命となった。この騒動を受けて、アメリカ側から退位をめられてもいたヴィルヘル二世は亡命し、ここに革命が成立した。それは長く続く戦いの終わりでもあった。その前には騒動の発端でもあったオーストリアハンガリー帝国も崩壊していた。

終戦からベルサイユ体制

1918年11月11日第一次世界大戦終戦フランスにあるコンピエーニュので休戦協定が結ばれ、翌年講和会議が行われることとなる。

年が明けた19191月パリで講和会議が開かれ、戦後処理が行われる。講和条約の締結だけはパリではなくベルサイユで行われた。これはドイツ帝国が普戦争で勝った時に条約を結んだ場所であることへの意趣返しである。この意趣返しはさらに第二次大戦にも続き、ナチス・ドイツフランス降伏文書は、コンピエーニュのでわざわざ休戦協定を行った食堂車輌まで用意して行われることになる。
この講和会議の内容は大変感情的なもので、ほとんどが英によるドイツへの賠償を請するものであった。
とはいえ英にとっても事情があった。英アメリカの多大な貸付によって戦争を行っていたこともあり、アメリカの支払い要もまた強かった。まさしく負担はより低いところへ流れていくようにドイツの賠償となって形になっていったともいえる。

ルサイユで調印された条約を元に戦後の新体制がヨーロッパに建設された。これをベルサイユ体制と呼ぶ。

  オーストリア=ハンガリー帝国

ロシアとの戦争で疲弊したところに連合側の分断工作が入り、帝国内の諸民族が次々に独立。なし崩し的に帝国分解中世ヨーロッパを支配し続けた名門ハプスブルグは没落し、祖国を追放された。現在ハプスブルグオーストリア共和国への忠を誓うことで帰を許され、欧州議員をやったりしている。

  セルビア王国

戦争の発端となったセルビア小国であるがゆえに負け続けた。勝つ要素がかったために滅亡するものと思われていたが、オーストリアハンガリー帝国が解体されたために運良く戦勝側に回ることができた。近隣諸とともにユーゴスラビアを結成する。

  ドイツ帝国

敗戦によって、政が崩壊。軍備解体と、巨額の賠償を課せられた。名をワイマール共和称し民的な国家となったが、敗戦後ことあるごとに英いびられ、徐々に恨みが溜まっていき、ついにはナチスが台頭する。

  ロシア帝国

ロシア革命によって終戦前にが崩壊。ソ連となる。大戦後はロシア内戦が勃発し、自民同士で殺しあう凄惨な戦いが展開された(皇帝以下皇族、貴族、資本家宗教者たちは亡命できたものを除いてほとんど滅ぼされ、多くの民が亡命を余儀なくされる)。内戦に勝利したレーニン資本主義的政策ネップを取り入れるなど一応柔軟に対応し、ソ連は急速にを上げていくことになる。この時代スターリンレーニンの陰で裏の仕事をこなしていたため、表舞台に居なかった。

その他の国々

は戦地へ物資を売りつける立場だったために戦争特需で大いに潤った。特にアメリカ戦前巨額の対外債務に悩まされていたが、戦後は逆に世界最大の債権となりへの地歩を築き上げた。日本はそれほどでもかったにしろ、ドイツ領だった南西諸などを手に入れた。ただしロシア革命のドタバタ騒ぎの中でのシベリア出兵はあまり芳しい結果とはならず、結果的にこの地域の取扱いを巡ってアメリカと対立していくことなる。

オスマン帝国戦前より衰退の一歩をたどっており、第一次世界大戦に負けたことで滅亡は決定的となった。1922年にトルコ革命が起き滅亡。

イタリアヘタリアと呼ばれるほど戦争に向かないだが、今回は戦勝側に回り「未回収のイタリア」を獲得することに成功。もちろん第二次世界大戦に負けたあとは奪い返された。

ブルガリアは敗戦で領土を失い混乱第二次世界大戦中もドイツについたり英についたりと混乱しっぱなしで、結局第二次世界大戦が終わって共産主義になるまで混乱し続けた。

戦争が残したもの

貴族が領土当てに起こした最後の戦争であると同時に、ヨーロッパの古い体制を根底から覆す戦争にもなった。貴族たちは死者などせいぜい万に届くかどうか程度に考えていたが、結局900万人というあまりにも膨大な死者を出し、後のヨーロッパに暗い影を落とした。

特に英では、若年層…18歳から25歳の世代男子に著しい減少が発生した。およそ30%程度の男子がいなくなったという話もあり、各地で結婚適齢期の女性が余っていたため、年頃の男性は色々な意味で(あれな意味でも)大変だったという話も残っている。特にフランスでは若年世代の減少が出生率に多大な影を及ぼし、この回復に年近い歳を必要とする。

また、この結果は英において戦争を忌避する傾向ともなって現れた。イギリスで極戦争を回避するために最後まで外交交渉に固執した(宥和義)。欧州大陸とドーバー峡という天然の要で隔てられているイギリスとはまた違ってドイツを接するフランスではマジノ線という強固な要塞線を作り、守勢を保つことを第一として考えた。
感情的にも人員動員としても二度と同じ様な戦いは行えないという意識がそこにあったのだ。

ドイツも状況は似たようなものであったが、自に攻め込まれたわけでもない状況での敗北は、奇妙に現実感覚を失わせてもいた。最後に残ったのは大な賠償であり、ドイツ民の多くにこのベルサイユ体制をいかに覆すかという意識が芽生えたとしても理はないだろう。ワイマール共和もこの賠償返済に苦しみ、内には様々な混乱が発生し、NSDAPナチス党)の躍進を促すことになる。

アメリカへと踏み出すことになるが、理想義と孤立義がベルサイユ条約前後に働いた。際連盟がウィルソン大統領の発案で設立されたものの、アメリカ世論は孤立義をし、発案が参加しないという奇妙な状況になってしまう。

日本も望むと望まないとに係らず社会の重要なキーパーソンとなっていたが、この不幸な点は欧州大陸で行われたことが一体いかなることなのか、ということをに理解しなかったという点にあるかもしれない。戦場でも、政治でも。そのことのツケは第二次世界大戦にいたって初めてわかることになった。

ロシアでは共産主義政権が成立することになり、20世紀末まで続く対立の火種ともなっていった。

その後ベルサイユ条約から10年後には世界恐慌が発生、また敗戦の恨みを徒に増加させるなど戦後処理にも失敗した。これは第二次世界大戦に続くとなっていく。第二次世界大戦後GHQによる日本の処遇が割りと甘かったのは、ベルサイユ条約での戦後処理失敗が教訓にされているためである。

科学技術の発達によって人を殺す方法が効率化され、後の大量破壊兵器の開発に繋がった。

 関連動画

 関連商品

 関連項目


【スポンサーリンク】

携帯版URL:
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
ページ番号: 4264390 リビジョン番号: 2358341
読み:ダイイチジセカイタイセン
初版作成日: 10/01/21 09:29 ◆ 最終更新日: 16/05/05 13:55
編集内容についての説明/コメント: 「関連動画」から視聴不能のsm1595154を除去しました。「関連項目」に「西部戦線異状なし」を追加しました。
記事編集 / 編集履歴を閲覧

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

第一次世界大戦について語るスレ

188 : ななしのよっしん :2016/07/26(火) 11:08:48 ID: dG/dwYEBwQ
>>187
何か学んでくれると信じたいが、
「人は弾、人は塹壕、人は楯」
とか、
「結局は精が勝敗を決するのである」
とかいう教訓を得そうで怖い気もする
189 : ななしのよっしん :2016/07/26(火) 22:41:59 ID: qfQNhycypT
・戦勝五大
フランス白色キリスト教
イギリス白色キリスト教
アメリカ白色キリスト教
イタリア白色キリスト教
日本黄色仏教

日本「じ、人種等条項を国連の規約に入れてください…」
190 : ななしのよっしん :2016/07/26(火) 23:36:57 ID: A672PRfxiT
キリスト教といっても一枚岩じゃないんですけどね…
つーかその頃の日本仏教ではなく国家神道なんじゃ
191 : ななしのよっしん :2016/07/28(木) 00:03:07 ID: BUqg/Zka7f
>>187
小畑敏四郎が当時観戦武官として派遣されたのはロシアだが、
戦の凄絶さをの当たりにしたがゆえに
日本では総戦は到底理」
「ならば速戦速決で戦を終わらせるのみ」
との決論に達し、結果的には補給・兵站軽視の潮は強まった。

「補給・兵站軽視」という潮は旧日本軍の悪弊と思うが、
その結論に至る過程での、日本に対する
冷静な評価を鑑みると、分析自体はさほど的外れではないと思う。

前線で酷使される将兵はたまったものではないが……
192 : ななしのよっしん :2016/08/21(日) 18:09:57 ID: oV2aIt+xUf
この戦争かったらドイツ語際的地位が没落する事はかったのかな・・・
ドイツがすべての植民地を喪失したのもそうだけど
オーストリア解体も影しているはず

オーストリアの解体がかったら
ドイツ系地域の都市でもドイツ語流になっていた可性もあり得るだろうし
193 : ななしのよっしん :2016/09/11(日) 00:25:38 ID: tirVORleDO
参戦要があったから参戦したのに火事場泥棒扱いはひどすぎませんかね…
194 : ななしのよっしん :2016/09/11(日) 00:37:10 ID: A672PRfxiT
参戦はしたけどヨーロッパ戦線にほとんど関与してないからね仕方ないね
195 : ななしのよっしん :2016/09/16(金) 02:01:54 ID: M88cGzyD3n
日本には日本の事情があるとはいえ、日英同盟のにとどまらない活動をしながら、
のらりくらりと度重なる欧州派遣要請を拒否して、極東での利権確保に精をだしていたからねえ
軍の遣欧艦隊は評価されたがこれで終り、WW1最小被の一つの仲間入り
最小の犠牲で最大の利益を追求するのは国家として有りだが、火事場泥棒感は仕方ないね
196 : ななしのよっしん :2016/09/17(土) 18:23:46 ID: tirVORleDO
>>195
同盟のにとどまらない活動してたならますます火事場泥棒扱いはおかしいと思うんですけど…
197 : ななしのよっしん :2016/09/18(日) 14:18:34 ID: M88cGzyD3n
>>196
変な言い方になってしまってすまない
日本は日英同盟を理由に参戦したが、連合の一員として振舞ったということね
益が得られる場面では積極的に、益を損なう場面では消極的に
  JASRAC許諾番号: 9011622001Y31015