タルラー・バンクヘッドとは、ハリウッド史上、最もスキャンダラスで自由な悪役女優である。
概要
1902年1月31日、アラバマ州ハンツビルの地で生を受ける。父のウィリアム・ブロックマン・バンクヘッドは下院議長、祖父のジョン・H・バンクヘッド2世は上院議員という民主党政治家一家の娘であった。だが、母のアデレード・ユージニア・バンクヘッドは敗血症のため彼女を産んでまもなく逝去。父はそのショックで仕事と酒に溺れる日々を送り、家に帰ることがなかった。親戚の家に預けられるも良い待遇を受けず、彼女を実の娘のように愛してくれたのは黒人のメイドであるローズ・レリィだけであった。
それでも父への愛情に飢えていたがゆえにウィリアムと口論することが多く、その寂しさをクラスメートの男の子との情事、逆ハーレムで発散していた。これには父親は頭を抱え、全寮制の女子校に転向させたが、なんとそちらでは女子生徒を食い漁っていた(性的な意味で)。流石に純血を良しとする女子校側はそんな危険な女を野放しにできるわけがなく、以降は数々の学校にたらい回しにされることに。
そんな中、彼女は自分を受け入れてくれるであろう芸能界にあこがれを抱き、女優を夢見て15歳の時に雑誌のコンテストに応募し、入賞。しかし、この時は端役ばかりで仕事に恵まれず、自らを見てくれるアメリカに見切りをつけて21歳の時に渡英。そして、ロンドンで行われた舞台のオーディションで彼女だけ酒とたばこを持ち込んで酒盛りを敢行。そして、「灰皿がない」と怒っていた様子を気に入られて合格。それこそ、彼女が評価されるきっかけとなった舞台「The Dancers」であった。ウィンダムズ劇場にて上演されたこの舞台は悪女のダンサーが主役であり、これぞタルラーらしい役であった。この舞台はティーンネイジャーの女性をも虜にするほどで、訪れた観客の中にはトーマス・エドワード・ロレンスやアルフレッド・ヒッチコック、後に英国の大統領となるウィンストン・チャーチルがいた。特にチャーチルは何度も足を運ぶほど入れ込んでいた舞台であった。それほど、ロンドンは稀代の悪役女優を絶賛したのだ。
そんな評価を聞きつけてかハリウッドはタルラーを招待し、彼女はアメリカへ凱旋帰国を果たす。だが、彼女はハリウッド女優なら喜びそうな清楚なヒロイン役はすべて断り、どんなに低いギャラであろうとロンドン時代同様悪女しか演じなかった。こうして代表作である「救命艇」出演までに名実ともに悪役女優として不動の地位を獲得する。だが、それだけでとどまらないのが彼女。マスコミには「自分の名前さえ間違えなかったら良い」と記事の内容に興味を示さず、それどこかどんな役者(男女問わず)と寝たかを包み隠さずマスコミに伝えていた。
その素顔は自由を愛し、誰にでも平等に接する視界の広い自由で分け隔てのない女だった。だからこそスキャンダラスな女性ながらも全く自らを偽らない正直なコメントと毒舌で世間からも愛され、孤児院を建てて学費を出資して里親を探したり、動物愛護団体に寄付したりもした。そして、時の大統領であるハリー・S・トルーマンは話題作りのためにタルラーをホワイトハウスに招待した。このとき、彼女は母親を同伴させることを条件に招待を受けた。そう、その時に同伴した女性こそ、彼女の母親代わりだったメイドであるローズ・レリイであった。彼女にとって極当たり前の行為は大統領を含めた他の白人からすれば信じられない光景に見えただろう。こうして、ローズは黒人女性で初めてホワイトハウスに足を踏み入れた人物として歴史に名を刻むことになった。タルラーは本当に極自然にアメリカ史にとってはまたとない偉業を成し遂げたのである。それも、人種差別が激しい時代の最中で。
晩年の彼女はトーク番組で歯に衣着せぬ自由な発言で民衆を魅了し、相変わらず酒とタバコと麻薬、更には男も女も愛する日々を送った。そして、肺気腫を患いながらもバーボンの要求が遺言となり、この世を去った。1968年12月12日、66歳の冬の出来事であった。
関連動画
関連商品
関連項目
- 3
- 0pt