波多野秀治 単語

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ハタノヒデハル

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波多野秀治(?~1579)とは、戦国時代の武将である。

概要

織田信長から離反し、丹波で明智光秀と戦ったことで有名な人物。

なお、波多野氏の系譜関係は『波多野系図』と一次史料で相当異なっており、いまさら前者に依拠するとブチ切れられるので注意である。

ここまでのあらすじ

波多野氏の成立

丹波波多野氏は、評定衆とは異なり、石見吉見氏の一族が方の姓を名乗って細川勝元に仕えたことに始まる、とされる。その祖である波多野清秀は『文集』によると永正元年(1504年)7月24日に62歳で亡くなったとされる。なお、この波多野清秀が応仁の乱の功績で細川勝元に丹波多紀を与えられたのが、八上進出のきっかけだそうだ。

ここで文明年間に登場する「秀久」が、従来この波多野清秀の一族だと考えられてきたが、『兵庫県史』が寛永19年(1642年)に付けられた怪しい押の記載でしかないことを明らかにし、仮に波多野だとしても評定衆波多野であることがわかってきている。

ともあれ、この新である波多野氏は、物部上原氏の寄子として躍進していく。波多野清秀が文書に姿を現すのは、文明17年(1485年)の上原元秀の遵行状であり、丹波に移ってから25年の内に有被官になっていたようだ。このことは文明17年10月日の『大乗院寺社雑事記』でも裏付けられる。

ところが、この上原元秀は明応2年(1493年)に他の内衆との抗争中に死去。その父親上原が守護代を引き継ぐが、明応4年(1495年)に一族もろとも落し、守護代は内藤元貞が担うようになる。この過程で、既に多紀摂津などに経済基盤を持っていた波多野清秀もまた、上のポストいたことで躍進していくようだ。

三兄弟の時代

その息子が、波多野元清、香西元盛、柳本賢治の三兄弟である。波多野元清は、永正年間頃に登場する。永正元年(1504年)の薬師寺元一の乱にもそれっぽい人がいるが、確実なのは永正4年(1507年)の細川政元による丹後攻めの時に、『細川大心院記』にこの波多野元清内藤貞正とともに出てくるのである。丹後の一色義有攻めに赤沢宗益、香西元長、香西元らと、この丹波衆が加わっていたのだ。

以後、細川澄元・細川高国の戦いでは、当初は細川澄元方にいたが、永正5年(1508年)6月以前に細川高国方に離反。7月には多紀を占拠した。この頃には禁裏御料所上村にも権益を持ち、三条西らと回路を持った。

しかし、かくまっていた瓦正頼が永正8年(1511年)細川高国に誅殺されたあたりから行きが怪しくなり、大永6年(1526年)10月に路線対立かの香西元盛が君に殺されると、末の柳本賢治とともに細川高国を離反する。かくして細川晴元と連携して池田に籠するが、既に波多野秀忠を名代としていた波多野元清は、多分、享3年(1530年)にひっそりとなくなっている(『細川両家記』に享3年(1531年)に自害した話もあるのと、あれ官途違くない?というので、少し迷うが…)。

前代の頃

ここで、大永7年(1527年)に京都に攻めあがったのが、波多野秀忠である。かつてはこの波多野孫四郎は元清だとされてきたが、押から秀忠だとされた。文年間に出てくる波多野備前守は、波多野秀忠とされている。

5年(1532年)にいったん文法の絡みで一向一揆を避けて落したと『言継卿記』にあるが、波多野秀忠文2年(1533年)に細川晴国をいったん擁立する。ところが、細川晴国の敗死で、再び細川晴元に従う、というように割とコロコロを変えていたようだ。

波多野秀忠上村に加え桐野河内郷にも進出していった。文5年(1536年)には細川晴元の下で丹波守護代にもなっており、荒木清長などを従えていたようだ。が、『蜷文書』によるとこの荒木清長が御料所を荒らし、幕府は細川晴元波多野秀忠の順に、これを何度もやめさせるように命する必要があったほどであった。

文14年(1545年)には細川氏綱党の内藤顕勝がに籠したため、三好長慶三好政長らに救援をめた。なお、基本的には『古文微』と『蜷文書』で彼の事績が多くたどれる。

そして、文16年(1547年)より波多野元秀が姿を現す。波多野元秀は細川晴元方として細川氏綱に寝返った三好長慶を攻撃し、波多野元秀、波多野塩川満、波々伯部らが連合軍を結成した。かくして、文22年(1553年)には松永久秀らと戦い、永禄の変の後は松永久秀側になった。

なお、治3年(1557年)に松永長頼に八上を追われ、彼の敗死までは落していたと書かれるが、一次史料を見た限り、多紀のどこかで権を行使しており、にわけがわからないので、この点はパスさせてほしい

ということで長々と前史をたどってきたが、ここである問題が生じる。

父親は誰か

この記事の波多野秀治であるが、波多野通の息子、あるいは波多野元秀の息子紹介される。よく言われるのが『波多野系図』によると父親波多野通だが、伯父波多野元秀の養子になったとされる、と書かれるのだが、ここまで見てわかるように波多野通ってやねんという話である。実はこの波多野通だが、軍記にしか出てこず、ここ数十年で『波多野系図』の波多野元清波多野稙通と書かれたりを修正した結果、なんかごっちゃになっているのである。

一応、『史大辞典』で野口実が波多野元治をこう書いたのがコピペされているが、その後の芦田岩男波多野清秀→波多野元清波多野秀忠波多野元秀→波多野秀治という系図、をさらに発展させて、八上研究会が最後の波多野秀治を結局波多野元秀の養子にした系図が、現状一番新しい。

なお、さらにややこしい話として、福島として波多野秀長→波多野波多野次郎の系統を見出し、実は波多野を名乗るが複数あるのである。

まあい話、頑りに頑ってここまでのことがわかってきたので、波多野秀治がどこのかは、いつかはわかるかもしれない、ということで、この程度の記載にとどめておく。

波多野秀治の時代

以後、地元の民俗誌や軍記には毛利元就を説得して正親町天皇の即位式への費用を献上させたことや、八上松永孫六から奪回したことが描かれるが、彼の事績かどうかそもそもが不明で、父親と混同されている可性もある。少なくとも八上奪還は『言継卿記』によると波多野元秀である。

なお、波多野秀治であるが、ぶっちゃけ一次史料は4点しか残しておらず、ほとんど軍記で事績が盛られている人物である。以下、できるだけこのを排除した記述にする。

11年(1568年)に足利義昭が上するとこれに従い、以後は織田信長に通じていくが、特に何か事績があるわけではない。ところが、荻野直正(いわゆる赤井直正)を明智光秀が攻めている正4年(1576年)に突如としてこれに離反し、明智光秀を攻撃。以後、丹波情勢を泥沼化させる端緒となった。

明智光秀はこの時点では丹波にかかりきりになれなかったものの、徐々に形勢を好転させ、正7年(1579年)から本格的に定をす。5月5日には波多野宗長子の籠る氷上が落し、6月1日に八上も落した。『総見記』にある母親を人質にして和した明智光秀にだまし討ちされたに関しては、あくまでも虚説にすぎず、実際にあったことではない。

捕縛された波多野秀治と波多野秀尚らは、8日に処刑された。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける波多野秀治の力一覧。

知名度のため全版からの皆勤賞軍事にそこそこ秀でている

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 46 政治 66 92 野望 63
武将風雲録(S1) 戦闘 61 政治 47 74 野望 63 教養 64
覇王 采配 70 戦闘 71 智謀 44 政治 27 野望 49
天翔記 戦才 146 智才 94 政才 90 72 野望 70
将星 戦闘 71 智謀 57 政治 47
烈風 采配 59 戦闘 64 智謀 53 政治 43
世記 采配 57 智謀 45 政治 24 野望 59
蒼天録 統率 60 知略 48 政治 26
下創世 統率 59 知略 47 政治 27 教養 58
革新 統率 70 武勇 66 知略 53 政治 31
統率 66 武勇 53 知略 72 政治 31
創造 統率 63 武勇 57 知略 70 政治 39

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