伊達宗城(1818~1892)とは、幕末に活躍した大名である。
概要
伊達政宗の子孫のうち庶家である伊予宇和島藩主。一橋慶喜(後の徳川慶喜)を徳川家定の後継者に据えようとしていた、一橋派の一人。また天保期以降の明君の一人。
宇和島藩主・伊達宗紀の従兄弟である旗本・山口直勝の次男として生まれる。いったんは、文政11年(1828年)に宇和島藩士・伊達寿光の養子となるが、文政12年(1829年)には藩主である伊達宗紀の養子となった。父・山口直勝は渡辺崋山の門人であり、伊達宗城も田原藩に通って高野長英と面識を持つなど、開明的な雰囲気に恵まれていたとか。
宇和島藩では伊達宗紀が天保の改革を進めており、弘化元年(1844年)に宇和島藩主となった伊達宗城もその富国強兵策を引き継いでいった。殖産興業にも力を入れて蠟の専売制を敷いた一方で、大村益次郎や高野長英を招き洋式兵学の導入に成功する。
かくして阿部正弘、徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永、山内豊信らと連携を強めていった伊達宗城は、徳川家定の後継者に一橋慶喜(後の徳川慶喜)を据えようとする一橋派として活動。安政5年(1858年)の安政の大獄で退隠を命じられ、伊達宗徳に家督を譲った。
文久2年(1862年)に上洛後は公武合体派として島津久光と共に連携していく。アーネスト・サトウに雄藩連合政権の構想を語ったような伊達宗城であったが、島津久光と徳川慶喜が対立していくと、久光に同調してあまりはかばかしい成果を上げることはできなかったようだ。
このような人物であったため、明治新政府でも重きをなし、明治元年(1868年)から明治4年(1871年)までに議定、外国掛、外国知参事、参議、民部卿兼大蔵卿、大蔵卿、清国欽差全権大臣などを歴任。明治22年(1889年)に勲一等瑞宝章を、明治25年(1892年) には従一位に叙せられた。
関連項目
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